さぎしま讃歌 — Part 13¶
Verbatim bilingual transcription from the book's own Japanese and English text files. The English is the book's own translation: faithful for prose, but proper nouns/place-names are machine-mangled and must NOT be trusted for spelling (see _meta/open-questions.md). Japanese is authoritative.
日本語 (original / authoritative)¶
p.118
30.塩田
製塩は、中世までは至る所の海浜で揚げ浜式製塩法により行われていましたが、江戸時代にはいり入浜式製塩法が 導入され大規模な製塩がされるようになりました。しかし、 昭和28年頃から流下式製塩法 (枝条架式)に改良され、さら に生産コストの安いイオン交換膜法に切り替えられました。 製塩の合理化が進む中で、昭和46年(1971)、鷺浦の塩田 はなくなりました。
入浜式塩田
向田の塩田
天和3年(1683)
小浜・元〆浜ができた
天保5年(1834) 扇浜塩田ができた
佐木の塩田
明治5年(1872)
下の浜塩田ができた
明治37年(1904) 上の浜塩田ができた
須ノ上の塩田
明治22年(1889) 南浜、北浜ができた
入浜式塩田
小佐木
扇浜塩田 小浜・元〆浜塩田
p.119
向田繁栄の父
西原庄蔵と扇浜塩田
向田扇浜塩田は、天保5年(1834) 時の向田の庄屋 西原庄蔵 が村の繁栄を願い、私財を投げ出し、当時、海で隔てられていた割石島の間を埋立て造ったものです。
潮流の激しい場所での工事のため、折角築いた堤防が幾度も強 い波風に崩され大変なものであったと伝えられています。
天保3年(1832) に着工したこの工事は、遂に、天保5年(1834)、面積、約20町歩(20)の「扇浜塩田」が完成したのです。 西原庄蔵の造った扇浜塩田は百人以上の雇用が図られ向田の人々に多大の豊かさをもたらしました。
その他、庄蔵は、地域の繁栄のために数々の業績を残しています。
昭和5年(1930)、鷺浦村は、西原庄蔵の徳を称え、八幡神社に頌徳碑を建立しました。
昭和5年 八幡神社 西原庄蔵翁頌徳碑除幕式
p.120
- 向田の塩田
入浜式塩田
入浜式塩田は、地盤の浸透 作用を利用して、砂浜に海水をまき、砂の表面に塩を結晶させ、それをもとに濃縮した塩水(かん水)をつくりました。 塩 1トン相当のかん水をつくるために、砂、海水の量は200トンが必要で大変な重労働であったといわれています。
また、入浜時代、浜子は浜曳き、その他で陌当り1日25kmを歩いたとも言われています。
扇浜塩田
(入浜式塩田)
扇浜塩田
(入浜式塩田)
p.122
中央の家屋は、塩田地主 西原邸
p.123
扇浜塩田
(入浜式塩田)
p.124
流下式塩田(枝条架式)
流下式(枝条架) 塩田は、竹の枝をつるして、その上から海水をたらして塩水を濃縮する方法で、濃縮した塩水は、入浜式では1陌当り100トンでしたが、流下式では000トンとれ、労働者は、入浜式が1陌当り5人が必要でしたが、流下式では1人になったと云われています。
p.125
扇浜塩田
流下式塩田(枝条架式)
竹の枝に付着した塩
English (book's own translation — prose reliable, proper nouns NOT)¶
p.118
30.塩田
製塩は、中世までは至る所の海浜で揚げ浜式製塩法により行われていましたが、江戸時代にはいり入浜式製塩法が 導入され大規模な製塩がされるようになりました。しかし、 昭和28年頃から流下式製塩法 (枝条架式)に改良され、さら に生産コストの安いイオン交換膜法に切り替えられました。 製塩の合理化が進む中で、昭和46年(1971)、鷺浦の塩田 はなくなりました。
入浜式塩田
向田の塩田
天和3年(1683)
小浜・元〆浜ができた
天保5年(1834) 扇浜塩田ができた
佐木の塩田
明治5年(1872)
下の浜塩田ができた
明治37年(1904) 上の浜塩田ができた
須ノ上の塩田
明治22年(1889) 南浜、北浜ができた
入浜式塩田
小佐木
扇浜塩田 小浜・元〆浜塩田
p.119
向田繁栄の父
西原庄蔵と扇浜塩田
向田扇浜塩田は、天保5年(1834) 時の向田の庄屋 西原庄蔵 が村の繁栄を願い、私財を投げ出し、当時、海で隔てられていた割石島の間を埋立て造ったものです。
潮流の激しい場所での工事のため、折角築いた堤防が幾度も強 い波風に崩され大変なものであったと伝えられています。
天保3年(1832) に着工したこの工事は、遂に、天保5年(1834)、面積、約20町歩(20)の「扇浜塩田」が完成したのです。 西原庄蔵の造った扇浜塩田は百人以上の雇用が図られ向田の人々に多大の豊かさをもたらしました。
その他、庄蔵は、地域の繁栄のために数々の業績を残しています。
昭和5年(1930)、鷺浦村は、西原庄蔵の徳を称え、八幡神社に頌徳碑を建立しました。
昭和5年 八幡神社 西原庄蔵翁頌徳碑除幕式
p.120
- 向田の塩田
入浜式塩田
入浜式塩田は、地盤の浸透 作用を利用して、砂浜に海水をまき、砂の表面に塩を結晶させ、それをもとに濃縮した塩水(かん水)をつくりました。 塩 1トン相当のかん水をつくるために、砂、海水の量は200トンが必要で大変な重労働であったといわれています。
また、入浜時代、浜子は浜曳き、その他で陌当り1日25kmを歩いたとも言われています。
扇浜塩田
(入浜式塩田)
扇浜塩田
(入浜式塩田)
p.122
中央の家屋は、塩田地主 西原邸
p.123
扇浜塩田
(入浜式塩田)
p.124
流下式塩田(枝条架式)
流下式(枝条架) 塩田は、竹の枝をつるして、その上から海水をたらして塩水を濃縮する方法で、濃縮した塩水は、入浜式では1陌当り100トンでしたが、流下式では000トンとれ、労働者は、入浜式が1陌当り5人が必要でしたが、流下式では1人になったと云われています。
p.125
扇浜塩田
流下式塩田(枝条架式)
竹の枝に付着した塩