双鷺洲 (Sōroshū) — Section 11-2¶
Verbatim JA transcription of an archival/historical compendium (Edo-period cadastral & census records, temple/shrine & school history). Classical Japanese with transcription artifacts; NOT yet translated; quotes deeper primaries (三原市史, 須波村 survey docs). Native/historian review required.
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1.4月8日智徳修養に関する講話をなす。
2会員は毎月草履三足宛を作り、合同売却して之を貯金す。
35月27日、向田尋常小学校に遊動円木一組・鉄棒一組を寄贈す。此代金拾参円。
48月20日、本区••••宅火災に罹りしとき消防に尽力し、尚金弐拾円弐拾六銭を集めて贈り、又事業区よりは金壱円五拾銭を贈り、主事吉本良之助会員を代表して之を慰問す。
511月7日病気他出療養中の幹事●〇〇〇に慰問状を発す。
61月4日より三日間 肥料の講習会を開く。
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毎月一回満月の夜会員一同集合し談話会を催し、又会員の智徳増進を計る。
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体育奨励としては極地に土俵を設け角力を励し、又庭球をなし、器械体操を為す。
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勤使忍耐の美風を養成せんが為め、毎週金曜日の夜一時間を以って麦桿真田を編組せしめ、其収益を蓄積して視察費及運動器具等に書籍雑誌の購入費に充つ。
貯金式拾九円五拾銭。
第三事業区(須ノ上)事業成績(明治44年度)
1.教育勅語及び成申認書の価趣旨を服膺し、会員協同一致して会の目的を達せんことに努む。
24月9日春季総会を開催して、智徳体の修養並びに贅沢を戒め勤貯蓄に関する講話を聴く。
3全月30日本区字湯船越なる道路延長三十間を掘下げ、土砂は字郷中道路の破損せる箇所に運搬して延長口六間分を修繕せり。
45月1日本区大川堤防の破損せる所を或は石を築き或は土を運び修繕完成す。
59月2日字豊田岩向田越なる道路延長拾丁余を修繕す。
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全月3日本区志美津谷の異道路修繕為す。
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全月9日本区氏神祭典式飾付道具修繕をなし、其費用五円五拾銭会員負担す。
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全月10日氏神祭典に付神殿前に飾付をなし、二日間倒神燈を供え又余興を行う。
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全月15日秋季総集会を開催して、自治風紀に関すること教育に関すること等の講話を聴く。
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会員体育奨励の為め水泳・角力・撃等をなす。
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1巡回文庫を設け、諸種の雑誌書籍を回覧す。
12.
13.
1月11日本区字湯船〇〇〇〇宅火災に配りたるを以て消防に尽力し、見舞いとして金式円を贈る。
42年4月以降毎月一人五銭宛の規約貯金をなす。累計六拾三五拾五銭。
14基本財産は会員の入退金を以て蓄積し、又44年4月よりは毎月一人壱銭宛出金して蓄積す。此総額金拾五円七拾銭。
大正年代になって鷺浦村青年団と改称され、青年団はますます盛んになった。そして青年団の主要目的は修養団体としての活動であった。当時の団員の最高年令は20才までとなっていたが、これはのち(大正9年頃)25才までに拡張された。
昭和年代になってからは勤労報国運動などもおこり、いわゆる当時の国策の線にそい太平洋戦争終結直後は一時崩壊状態であったが、ふたたび青年団活動ははじまり、青年学級の開設や文化運動、体育運動などに手をつけるようになった。
女子青年運動は大正13年5月鷺浦村処女会として発足したものであるが、のち女子青年団となり、男子青年団と同様なコースをたどって終戦後からは、男子とともに青年団活動をはじめるようになった。昭和28年、団員数約名うち男子約B0名・女子約40名であった。
(別資料)
第二事業区(向田)事業成績 (明治43年度~大正3年度)
1明治43年10月15日より同月23日まで向田野浦胡谷向田区荷場並びに同澪を大改修荷場三十平増築澪長百二十間巾間を洗し公衆に
便益を興ふ。同月27日竣工式執行余興として相撲をなし青年の勇気鼓舞に努めたり。
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明治44年3月22日向田尋常小学校移転新築に付き之が敷地堅めのため会員一同出務。
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明治44年4月8日 会員智徳修養のため八幡神社神楽殿に会員を召集、沖(松次郎)会長、吉本主事、西原幹事、稲田幹事より講話井に演説をなし午後4時解散、会員40名あり。
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同44年4月1日より三日間向田学校教員住宅移転改築をなし会員総出動にて奮励成就せしむ人夫 140人(延員)。
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同44年より草履貯金を行う。会員は毎月草履三足を作り、各会員之を合同売却して貯金し退団の際に返戻するこことせり。
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同44年4月24日 向田尋常小学校敷地に遊動器具を寄贈設備す。此の代価合計金拾参円。
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同44年11月1日 病気療養中の幹事••に慰問状を発す。
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毎月満月の夜談話会を催す。
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青年部以下の会員は皆補習学校に入学し熱心に之が教授を受けること。
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入退営兵士に対し楽隊を以て会員一同盛に歓送迎をなす。
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明治45年1月4日より同月6日まで三日間肥料講習会開催。講師には本郡須波村藤井卓二氏を聘し講習会員には一般村民も加わりて来
会聴講。
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同年5月27日 向田小学校落成式に当り大いに盡力盛大ならしむ。
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同余興に西洋曲芸軽業を頼み来り観覧に供し盛大なり。
147月30日 午前零時四十三分今上天皇陛下崩御遊されしにより同31日謹みて天機を奉同せり宮内大臣渡辺千秋殿宛。
15 12月6日 松江孤児院活動写真来村夜向田校にて開催、之が周旋をとり一般観覧に供す。
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入退営兵士の歓送迎会をなす。
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大正2年1月26日午後7時 会員38名向田校に集合、日本海々戦及潜航艇に関する講話を聞き大に知見を広む。
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継続事業として会員の草履貯金を行ひつつあり。
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毎月一回会員の談話会を行ふ。
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同年7月 掲示板を向田小学校門前に建設し、会に関する事其の他社会事件を掲示し会員並に一般公家に告示す。
同年8月17日 総会を向田小学校に於て開会出席会員 39名、会に関する諸般の報告をなし主事より注意事項あり、西原元幹事、西原社掌、沖校長より講話あり、青年会館建築の協議をなし午後の時閉会をなす。青年会館建築に関する図案並に区長に交渉する委員を左の7名と決
定す。西原隆三、沖松次郎、西原草、小谷力松、土本良次郎、谷本喜代蔵、岡田善七。
22.
23.
24.
25.
10月〇日本区〇〇氏宅火災あり、会員全部出動消防に盡力す。
継続事業の草履の合同販売金貯金。
満月会の談話会を継続す。
大正3年4月12日 大正天皇御即位記念事業として梅(140本を買求め向田本川堤並に村社八幡神社境内に植付をなす。
5皇紀弐千六百年記念事業 ・昭和15年(1940)
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この事業は、皇紀弐千六百年にあたる昭和15年(1940)を記念して、日本が軍国主義へ進む国政のなかで、青年の燃える力と団結によって地域つくり活動が推し進められた。
昭和20年の終戦まで、和暦として紀元が使われていた。皇紀式千六百年は、昭和一五年(西暦 1940年)にあたる年である。
鷺浦村青年団により、四地域でそれぞれ記念事業が行われた。
佐木地域の記念事業
佐木青年団では、以前の農協(現在の農協の西側の山手で藤木氏宅前)一帯の埋め立てが行われた。
向田地域の記念事業
向田青年団では、志加田海岸の埋め立てが行われた。
トロッコを使い山の砂、海の砂を運び、大規模な工事であった。
須ノ上地域の記念事業
須ノ上青年団では、榎木谷池(新池)の周囲を開墾し、そこにヒノキと杉の木 1500本の植が行われた。
青年団の記念事業に合せて、向田では、西川良作、西川庄造によって八幡神社に燈籠が寄進された。
さぎ港に建つ[記念事業の碑]
呈紀式千六百年記念事業之碑
昭和一三年一〇月起工
昭和一五年一一月竣工
鷺浦村男女青年団鷺浦分団奉仕
p.238
小佐木地域の記念事業
荒神社の葺替がされた。棟札に「奉葺替穀津神社」と記された。
以後、荒神社は「穀津神社」として平成23年まで祀られてきた。
6鷺浦村青年団の結成・昭和
年(1950)
戦後、昭和25年(1950)、宮下清村長は、青年に対して、青年も多くなり、活発な活動がされているが、島の復興のために何としても青年の力が必要だ、村も県の「新生農村」の指定を受け、村の復頭に取り組んでいる。分団を統合し鷺浦青年団を結成し三区の意識統一を図り結束して取り組んでもらいたい。若い者が休みに酒を飲んでごろごろしたり、用もないのに町に遊びに出たり無目的に時を過ごすようじゃあいかん。休日に皆なが集まって皆なで楽しむことが大切で、これが健全娯楽だ。
この呼びかけにより、鷺浦村青年団が結成された。団籍は、男子25歳、女子20歳までとし、文化・体育・産業部を置き互いに連携して活動することになった。
(講演佐木島とスポーツ 白須俊三)
•向田青年団(団員男女100人以上がいた)
行事
檀尻と神輿 " 秋祭りに地域の繁栄と豊作に感謝し行われた。
演芸会
=農関期(2.3月頃)に、青年団員によって行われた演芸会は、地域の娯楽の一つになっていた。
南穀田
=戦前から行われていた献穀田の田植えを引継ぎ、田植えから収穫まで行われた。
相撲大会
=神社境内において、相撲大会が行われ、青年の力強さが披露された。
駅伝大会
"昭和25年から、鷺島一周駅伝大会が始まり、伝統を引き継いだ向田青年団の素晴しい姿があった。
バレーボール =
弁論大会
=正月には弁論大会(体験発表会)が行われた。その大会は、鷺浦ー生口連合ー豊田郡県大会ー全国大会へと繋がっていた。
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昭和31年文部大臣杯争奪全国青年弁論大会入賞 岡田隆吉(上位六名が入賞者)
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昭和
33年文部大臣杯争奪全国青年弁論大会入賞 土森玉子(上位六名が入賞者
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読書会
=恩師、西原弘二宮司の指導のもとに読書サークルがつくられ、多くの本が読まれた。読書意欲の向上と教養が図られた。
青年学級 "鷺浦村青年学級が開設され、青年団活動の中味となった。
昭和25年(1950) 須ノ上に中央公民館が建設された。公民館の歌もつくられ、公民館を中心に青年団活動のみならず多くの活動が活発に行
われた。
昭和21年(1952)8a
龍浦村青年学級が開設された。(別項鷺浦村の補習教育参照)
鷺浦村青年学級の設立者は、村青年団であって、村並びに村教育委員会が後援団体となった。
昭和48年~昭和60年頃
• 向田青年団
团員数
名位(男女合せて)地域の青年層が少なくなり、団員数が減ってきた。
25才位から消防団員も兼ねた。
活動の内容
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演劇祭(演芸会)の開催 "農関期の二月頃、小学校の講堂で行われた。
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秋祭りへの参加 " 檀尻を担ぐ。
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父から聞いた話 秋祭りの檀尻担ぎについて
父(明治44年生)が、青年団員の頃、檀尻を担いでいたと聞いているので、その歴史は相当昔からだと思われる。父の時代には、青年団員数も百人をこえ、秋祭りの時には檀尻を塔の峰の頂上へ上げたり、海に入れたりしていた。当時の団員は農作業できたえた体力で、肩も強く、塩田の従事者も多かったので元気があり、若い団員は担がせてもらえなかったとの事である。
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島内一周駅伝大会への参加。
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島内バレーボール大会への参加。
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クリスマスパーティーの開催。12月、高校生も参加した。
昭和60年頃から、青年団員が減り、行事も年々精彩をくようになった
p.240
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市内全域に、青年団活動は衰退して、三原市内の青年団は、鷺浦青年団を含め一部の地域になった。
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檀尻は、現在(平成27年)、40才から70才位までの人による向田檀尻保存会によって担がれている。
塩本芳夫(昭和50年、三原市青年連合会 委員長)
7佐木島とスポーツ
-省略ー
昔、島では国技である相撲が盛んに行われ、厳しい労働に耐えるために強い身体と個性が養われてきていました。大正未期から昭和初期にかけ、師範学校に進学する人が出てこられ、若い師範出の先生は学校で学んだテニスや陸上競技を広められ、仕事を終えた若者は学校に集り、所狭しと日の暮れるまで、リクレーションとしてスポーツに励んだものでした。
当時、田中真氏が豊田青年として中国駅伝に出場し、区間賞を取ったことが刺激になって、青年のスポーツ熱は一段と盛り上り、生口連合、豊田都連合の大会では、「常鷺浦連合」の名声をほしいままにしてきた時代がありました。
こうして培われた青年の団結・協力の精神は、紀元二六〇〇年記念事業に見られるように、佐木港護岸埋立、榎木谷池(新池)の周囲に植林事業、鹿田の埋立の大事業を奉仕活動により完成させています。
当時、小学校の子ども達もこうした青年の姿を見て、スポーツに励み、少年団活動を通して、ラッパを合図に早寝・早起き、また行事化された手伝い、奉仕作業等がなされ健全な身体と精神が地域社会の姿の中で育てられてきました。
昭和一六年戦争が始まり激しくなるにつれて、若者は兵隊や軍事徴用に動員され残った年寄りは食料増産に身体を粉にして働く日々が続きま
昭和二〇年八月終戦となり、島は戦災で家を失い職場を失って疎開してきた人、戦場や外地から引揚げてきた人で溢れる状態になりました。 戦後のことで物資のない時代でしたが、幸い島は芋麦を主産物としておりましたので、出来た物を分け合っての生活は町に住む人達より幸せで した。
そのような時代でしたので、芋の値が高騰し、村は芋景気で、多くの問題がありましたが、中学校の校舎も豊田郡内で一番早く、昭和二三年に新 築されました。
その落成を記念して、村民挙げて鷺浦村民体育大会が盛大に行われました。
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その頃、宮下村長が、青年も多くなり、活発な活動がされておるが、島の復興のために何としても青年の力が必要だ、村も県の「新生農村」の指定 を受け、村の復興に取り組みたいと思うので、分団を統合し鷺浦青年団を結成し三区の意識統一を図り結束して取り組んでもらいたい。そして、村 体育協会をつくって老いも若きも一体となって三区の交流・融和を図りながら健全な村興しになる様、早急に取り組んでほしい。と言う村長の意向 をもとに、鷺浦青年団を結成し、先輩や各方面の意見を参考に体協規則の素案を作成、村長の同意を得て、全家庭加入による鷺浦体育協議会を結 成したのが昭和二四年でした。
正月には村役場の落成を祝い第一回鷺島一周駅伝大会を青年・消防・高校・中学・小学校、一五チーム、各地域対抗で村を挙げての声援の中で行わ れました。
大会は年を追って盛んになり、PTAチームや他の職域チームも参加するようになり二○チームこえるようになった事もありました。
村民体育大会は中学校の運動会と合流して年々行われ、その他、庭球・バレーボール・軟式野球も年間行事に計画され、年を取った同好者も多く 参加し、盛会に続けられておりました。
会長の宮下村長の考えが、若い者が休みに酒を飲んでごろごろしたり用もないのに町に遊びに出たり無目的に時を過ごすようじゃいかん。休日 に皆んなが集まって皆んなで楽しむ事が大切で、これが健全娯楽だ。と言うことで、正月・盆・休日に集中的に行われておりました。
体協結成当時は、特に陸上競技 バレーボールが盛んで、二三三年、青年男女が生口連合、豊田郡大会で優勝し県大会へ出場したり、二五年県東部 陸上競技選手権大会(福山誠之館)では、村上正人、千葉久造、小田保、内海氏と云った日本的選手の参加した大会に田中信一氏が走り幅跳びで表 彰台に上がったことは大きな刺激と感銘を与えてくれたものでした。
以来、年々盛んになり、田中信一氏、小谷昌司氏、丸山澄子氏(旧姓河野)、水泳で白須泉氏等が次々県青年代表として国民体育大会に出場する ようになったのでした。
バレーボールも中学生が青年と技を競うようになって上達し、二五年、呉で行われた広島県バレーボール選手権大会に出場し、中学校の部で、あ の有名な嚶鳴クラブの所在する古市中学と優勝戦を戦い、三セット共ジュースの接戦の末二対一で敗れはしたものの観衆に「鷺浦中学ってどこにあ るんか?」と言わせるものでした。二六年には大長で行われた豊田郡大会で優勝し、二七年、三原で開催された第一回広島県中学バレーボール大 会で優勝し、広島県中学一位に輝いたのでした。
昭和三一年、三原市に合併され三原市鷺浦町となり、三原市民体育大会に出場するようになり、三三年・三四年・三五年と連続して優勝した時は、 他地域の人々がその強さと団結心の強いことに目を見張ったものでした。
昭和三一年頃から日本経済も安定上昇気運が高まり体育行事を通して共に交わり育った優秀な人材が次々職域チームに勧誘され、白神義男氏、 北本三百子 (旧姓寺西)氏が帝人バレー部で活躍し、また、甲子園に出場した山根範久氏の活躍も感動を与えてくれました。