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双鷺洲 (Sōroshū) — Section 6-1

Verbatim JA transcription of an archival/historical compendium (Edo-period cadastral & census records, temple/shrine & school history). Classical Japanese with transcription artifacts; NOT yet translated; quotes deeper primaries (三原市史, 須波村 survey docs). Native/historian review required.

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  1. 芋観音(観世音菩薩)

(1)佐木寺山の芋観音

佐木寺の芋観音は、寺山の中腹にお堂があり、大きな自然石に観音像が彫られ祀られている磨崖仏である。

観音像は、等身大で衣は朱色され、頭には花のような冠をいただき、手には蓮の蕾を持ち裳裾が風に揺れている姿が彫られ、芋観音として信仰されている。

像の右側の岩には、「明治三年庚午年三月日・村中安全諸作豊登・西国三十三番」「発起人・亀田屋長七・世話人弥三郎」を筆頭に多数の名が書かれている。

「芋観音」と言われることについて

岩肌に「明治3年」と書かれているものの、佐木では、分化2年に因島重井からきた人が、「腐りにくいさつまいも」を伝えたと云われており、そのお嫁さんが早死したことで、人々は、哀悼と感謝を込めて、分化11年に芋観音を建立したと云う伝説がある。

岩肌には、西国三十三番と刻まれているが、西国三十三番の観音様とは、十一面観音であり、刻まれている観音像は似ているものの、頭には花のような文様で飾られていることから、十一面観音とは異なっている。

このことから考えると、この観音さまは、文化2年に「腐りにくいさつまいも」を伝えてくれたお嫁さんが亡くなられ、さつまいもを伝えてくれ たことに感謝しての建立ではないかと考えられる。

人々は、腐りにくいさつまいもによって生活が豊かになったことに感謝し、観音さまに「さつまいも」が供えられるようになり、芋観音として信仰 されるようになったものと思われる。

人々の感謝と祈り

芋観音は、以前は旧暦3月18日にお祭りが行われ、村人はさつまいもを1個ずつもってお参りし、お供えをしていた。

各家庭では、農作業を休み、寺に詣で、こどもは花見弁当をつくって貰い、山に登っていた。

沖は晴れ 朝日に向う寶筺山

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松のひびきに作や実のらん

ご詠歌に歌われ、豊作と豊かな生活への願いが祈られた。

しかし、現在は生産する農作物の種類も変わり、さつまいもが作られなくなり、 生活が多様化する中でさつまいもを持参してのお参りはなくなった。

岩肌に書かれた「明治3年」の日付は、おそらく文化11年に建立された芋観音 の改修がなされた年月であると思われる。

文化2年(1805) 重井より嫁に来た人が「くさり難いさつまいも」を伝えた と云われている。

文化11年(1814) 宝篋山に芋観音が建立されたと云われている。

明治3年(1870) 宝篋山の芋観音が修復された。

宝篋山の芋観音

明治15年(1882) 白須亀三郎の発願により寺山の観音さんが再建された。 (本尊は往古からあった由)

昭和11年(1936) 宝筺山に芋観音堂を再建した。 世話人総代 引地重松 引地宮次郎 白須又助 引地傳五郎

昭和49年(1974) 前年に台風で壊れた芋観音堂を修復した。

観音像の右側の岩面には次の様に寄進者が 刻されている。


発起 亀田屋長七

世話人 弥三郎 長助 八右卫門 伊右ヱ門

明治三庚午三月日 利兵衛 庄兵衛 六右卫門 長平 徳蔵

村内安全諸作豊登 広三郎 忠六 喜平 角右ヱ門 茂介

西国三十三番 信平 兵六

世話人 忠五郎 仙蔵 傳四郎 藤吉

世話人が二つに分けて刻されている。

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(2)須ノ上芋観音

平木キシの建立した芋観音

須ノ上湯舟に、六体の石仏の中に芋観音菩薩の銘ある石仏が祀られている。

芋観音菩薩の隣の薬師如来像には、「明治36年3月10日、平木キシ」と書かれてあり、六体の石仏は平木キシ(平木正明氏祖先)により建立されている。

この芋観音菩薩像は、一般的な菩薩のお姿ではなく頭巾をかむり、衣を着て袴をはいて座っておられる姿で、さつまいもを広めた下見吉十郎の生前の姿が彫られていると言われている。

平木キシは、大三島、瀬戸崎より来られた方で、おそらく、瀬戸内一帯にさつまいも を広め飢饉から人々を救った下見吉十郎が大三島に祀られ人々に篤く信仰されてい たことから、信心深いキシは嫁ぎ先の須ノ上に、吉十郎の生前の姿を芋観世音菩薩として祀ったものと思われる。

下見吉十郎が亡くなったのは、宝暦5年(1755)のことであり、明治36年は、吉十郎 の死後 148 年が経っており、さつまいもを伝えてくれた吉十郎への、いつまでも忘れな い感謝の気持ちと、これからも一層幸せな生活が得られるようにと祈ったものと思われる。

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(3)小湯舟山の石仏(観音さん)

・西国三十三観音

・不動明王

・薬師如来

・弘法大師

昭和3年(1928)建立 小湯舟山の石仏

湯浅正盛と父親亀松が音頭をとり 46名の方によって、昭和3年、小湯船山山 頂に、「観音さん」、「芋観音」と呼称される石仏群が祀られ、拝されてきている。

ここには、三十三観音の他に、不動明王、薬師如来、弘法大師が祀られ、三十三 観音のうち、33番の観音さんだけは別に不動明王の隣に祀られている。

この33番の観音さんは、別名、芋観音とも呼ばれているが、それは、安楽寺の 芋観音が 33番であることから、これを模して小湯船山でも33番の観音さんを芋 観音として、別に祀ったものと思われる。

このことから、ここに祀られている石仏群のうち数の多い観世音菩薩を総称 して、「観音さん」と呼び、別に祀られた383番の観音さんから「芋観音」とも呼ば れていると思われる。

地域が一望できる山頂への建立は、人々が健康で、お互いに幸せな生活ができ ていることへの感謝と、これからも大過なく一層幸せな生活ができる様、また、地域がより繁栄することを願って、何時でも見守っていただけるこの地に建立さ れたものと思われる。

現在、桜が植えられ、春、桜の花が満開に咲く頃、「観音さん」と云われ、人々は ここに集い、弁当を開き、酒を酌み交わしながら和やかに花見をし、前方に広が る素晴しい眺望に感嘆しながら楽しいひと時を過ごしている。

石仏は、向田の割石半島の石が使われ、向田、浜岡又市などによって、石仏が刻 まれ、舟によって須ノ上の土廣神社の前まで運ばれ、そこから山頂まで担ぎ運ば れたと伝えられている。

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ア、石仏の建立者

1番 湯浅 チヨ

2番 平木 〆次郎

3番 平木 マスヨ

4番 平木 伊助

5番 丸本 太郎一

6番 浜本 ツルノ

7番 山下 トミ

8番 向井 ウメ

9番 奥野 新六

10番 平木 伊勢市

11番 中本 兼松

12番 山根 ミキ

13番 河本 梅太郎

14番 中村 太市

15番 田中 栄二郎

16番 田中 栄二郎

17番 浜本 正平

18番 松本 東三郎

19番 丸本 嶋吉

20番 山根 林吉

21番 河本 豊八

22番 平木 作助

23番 山根 浅吉

24番 中村 軽吉

25番 奥野 菊松

26番 新開 カツノ

27番 山下 キヨノ

28番 河岡 マサ

29番 登木 長作

30番 池本 キサヨ

31番 中本 円二郎

32番 河岡 トク

弘法大師 湯浅正盛 奥本与三郎 平木与助 松本助太郎 小池一男

薬師如来 丸山貞太郎 々リエ

不動明王 湯浅 亀松

33番観世音菩薩  柏原十蔵 宮下チヨノ 平木シナノ 平木トヨノ 平木シカヨ

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  1. 桜の名所

(1)塔の峰・千本桜の丘

「塔の峰」という呼称は、先人が郷土の安泰と繁栄を祈願し塔を建てたのが興りだと言われている。

塔の峰は、この願いに違わず、頂上には、三本松と云われる松も生え、向田が一望できる景色のよい素晴しい憩いの山で、ここからの眺望は、人々 に夢やロマンや勇気を与えてきた。

しかし、昭和60年頃、シンボルの三本松は松くい虫により枯れ、斜面に広がっていたミカン畑も生産者の高齢化 や過疎化が進むなかで休耕畑に化していった。

この様ななか、地域の活性化を標榜して、平成4年、当時、三原市議会議員であった山下佳伸氏の音頭で、区を挙 げて地域への働きかけが始まり、「美しい自然のある古里を」を合言葉に、家庭や地域への花いっぱい運動が始まり、 塔の峰一帯に桜の植樹活動が毎年継続的に行われた。

特に、塔の峰の植樹に当たっては、区長を中心に地域の人全員の協力と谷本建設(谷本泉氏)の重機を使っての篤 志奉仕により荒地となった畑が整備され、毎年二百数十本の植樹が行なわれ、12秒の斜面に千数百本の桜が植樹 された。

桜の木は、人々の願いとおり大きく成長し見事な花を咲かせる桜になった。

四月、桜の花咲く塔の峰は、地域をあげて「桜まつり」が行われ、親睦を深めコミュニケーションの醸成を図る憩い の場となった。

そして、塔ノ峰は、桜の咲き誇る美しい丘として「千本桜の丘」と愛称されるようになった。塔の峰は、正に、郷土 の安泰と繁栄への願いに沿った区民の憩いの場として甦った。

現在、島外からも多くの人が桜を愛で訪れるようになり、塔の峰の千本桜は、「佐木島に桜の名所あり」と広く喧伝されている。

平成9年、向田区は、この地域活性化の活動により、青森県で行われた全国育樹活動コンクールにおいて、「林野 庁長官表彰」を受けた。

山頂に立つ塔の峰の三本松

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(2)港の丘公園

さぎしまは、春になると島内が桜の花で満開になる。向田塔の峰「千本桜の丘」とともに、佐木港に面した小高い山に設置された風光明媚な「港の丘公園」がある。

平成10年(1998)、佐木、緑花会の岡本千代喜氏によって、「地域が、何か明るい心になれるものはないか」「心が和むことは出来ないか」など、コミュニティづくりに関わって、港の丘の休耕地に桜を植えることが提案された。

これを受け、当時、鷺浦町内会長・三原市議会議員であった白須均氏が地域有志へ積極的に働きかけ、その実現を図り、佐木港周辺が一大桜の名所へと変わった。

過疎化が進むなか、活性化を求めて、「美しい佐木島に」、また、「手を取り合い笑顔で暮らせるまちづくり」が指向されたこの取り組みは、一つの明るい取り組みとなった。

有志の労力奉仕による桜の植樹活動。鷺浦小学校児童による「港の丘公園」の命名。展望台の設置。人々の願いに添って桜の木は年々成長し、港の丘一面に見事な花を咲かせるようになった。素晴らしい眺めとあいまって、港の丘公園は、願い通りのコミュニティづくりにふさわしい人々を楽しませる公園となった。

桜の植樹は、港の丘公園だけでなく、その付近の塩田跡地堤防にも植樹され桜の花の美しさは、一段と広がり、人々を楽しませている。

さらに、そこは散歩に適した一帯と変わり、憩いの場とともに散歩の楽しめる所となった。

港の丘公園の特徴は、桜の花が楽しめるだけでなく、そこからの眺めも素晴らしいことである。

港の丘公園への道路も拡幅・整備され、地域が眺望でき、眼前には細島をは じめ岩子島、尾道、向島を望む数々の島々が一望でき、その眺めは、人々にひ と時の安らぎを与えてくれている。

港の丘公園は、素晴らしい憩いの場所になっている。

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19.小佐木の歴史

(1)年表

縄文時代(後期) 北浦遺跡から土器出土。古墳もある。 北浦遺跡から土器。小佐木1号古墳。小佐木2号古墳。西谷遺跡がある。

慶長年間(1596~1615) 地神社(三宝荒神社)(御祭神 須佐男之尊)が創建されたと伝えられている。寛文元年(1661) 小佐木島の山林、御留山になる。

宝永4年(1707) 「三宝荒神社」が建立された棟札あり、願主と思われる甚七、長四郎の名が記されている。

享保10年(1725) 吉村姓の人が住んでいた。

宝暦7年(1757) 角南村の内小佐木島には、家一軒有るものの、山守番人等の家、故、人家無之方入置。(豊田郡誌)

資料によれば、享保10年、既に吉村姓の人が住んでおり、小佐木への定住は享保10年(1725) 以前であると云える。 小佐木に最初に定住したのは「吉村」姓の武家であったと思われる。

高 五石一斗六升三合。

文化5年(1808) 神社の棟札「奉修三宝大荒神〇御札」がある。

文化11年(1814) 小佐木島御山守 小佐木島 長三郎の名がある。

文政元年(1818) 御留メ山の記述あり。

文政元年(1818) 小佐木島

周廻三十三町二間、此島不残御建山に而、

人家七軒御座候、 人数 二十人、

高 四石九斗余之島に御座候。

(須波村「国郡志御用に付下しらべ書出帳」三原市史)

文政5年(1822) 御建山の記述あり。

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