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双鷺洲 (Sōroshū) — Section 5-2

Verbatim JA transcription of an archival/historical compendium (Edo-period cadastral & census records, temple/shrine & school history). Classical Japanese with transcription artifacts; NOT yet translated; quotes deeper primaries (三原市史, 須波村 survey docs). Native/historian review required.

p.96

◎女楽寺が、なぜ、瀬戸田の「地蔵」の末寺であったのか、地蔵院ととの様な関係があったのか。また、島がどうして安楽寺の家になっているのかについては全くあられていない。

地蔵院に関する資料

資料一

地蔵院は、天暦3年(949)の違立。

芸添通志(編纂文政8年1825)

地被院

深村にあり、大永年中、営了券、中興。

資料2

三原市史(田路志編集部用諸品書出

猿波村 文化11年(1814))

沢村地蔵洗

(本寺愛田郡生口島之内沢村地蔵況)

一種裏桁六間、桑四間

一领守三宝荒神社 桁音間、梁六尺

西原相模正抱

鳥居 石也

祭日十一月十四日、供物

羽供神淡

寺建立年窓を記5相知不甲候得共、天正年中(1573〜1591)頃、隆景公司家臣村上市兵衛5甲人建立之由中伝候、何之書留メも無習

檀家細島肉 佐木島にて百八拾三軒

外二駿林壱ケ処付申

※①地蔵院は、村上奥市兵衛により中興された。

②細島向島 佐木島は、地蔵院の家であった。

p.97

※地蔵説は、「天店3年(949)に建立され、大永年中(1521~1527)に営了秀によって中された」とされていることから、天正年中(1573~1591)、村上市兵衛により建立されたという資料(志編集3用品書出演波村 文化11年)は、建立ではなく、再建立であると思われる。

村上市兵衛が地蔵に関った年代は、小浦八幡宮の勧請や安楽寺の中興の天正年中であり、村上市兵衛が地蔵院に関ったことは間違いないと思われる。

このことから、村上奥市兵衛は、安楽寺と地蔵院の両寺に関わっていたことになる。また、安楽寺の家である佐木島、細島は、資料3の文書では、地蔵院の家として記されており、佐木島、細島は、元々は地蔵続の家であった。

村上奥市兵衛が、因島村上家の代官であつたことから考えると、細が地蔵院の家であっても不思議なことではなく、佐木についても、天正9年に小浦八福宮を建立し佐木に関わっており、佐木が地蔵の機家であってもおかしくない。

したがって、地蔵院が奥市兵衛によって再建立された後に、安楽寺が中興されたとするならば安楽寺は地蔵院の末寺であり、奥市兵衛は、地蔵院の塩家であった佐木島、細島を安楽寺の家に移し、交楽寺の確立を図ったものと考えられ、安楽寺の家に地島があると考えられる。

地蔵院と向田の関係について

次の口次等にみられる様に、向田と地蔵院との関係は深く、その関わりは、村上奥市兵に起因すると思われる。

資料 3

小早川隆景公 具臣 村上市兵衛と申人、当村、土井・みやふ之上二住居いたし居候処、何之様子ケ不在候得共、三原より足軽部尾込名価

波成候と聞伝中幌、其後様子相分り不甲候

(貝臣ー員数に入っているだけでなんの®さもしていない家来)

※当村とは、向田のことと思われる。村上奥市兵衛は、土井・みやこ上に住んでいた。

口然によれば、

向田には、寺西という姓の家の際に「空野」という家があり、地蔵院は、そこを宿元にしておられたと云われている。このことから考えると、田地域は地蔵尻の塩家であったと思われる。

向田には、寺上(寺の上)という地名があり、寺西(寺の西の家という意味だと云われてる)という姓や寺岡(寺の丘の家)という注や屋号があり、昔、その辺りに寺があったことを詰っている。いつ頃、寺が建ち、いつ頃なくなったのかは分っていない。

この寺上は、「ホウカイサン」とも呼ばれているが、物によれば、同田に寺があり、その寺は、佐木の安楽寺と問じ山号で、「宝山」と云い、「関山 会寺」であったと云われ、佐木の安楽寺と兄弟寺であったのではないかと云われている。宝

p.98

向田では、昔、内田に安楽寺があり、佐木に移ったという話も伝えられており、これは、安楽寺ではなく、会寺を指しているものと思われる。

※ 村上奥市兵衛が向田に居住いたし、肉田に会寺という寺があり、向田地域は、地蔵の家であったことを考えると、会寺も村上市兵衛が建立したものと推測できる。

したがって、肉田にあったとされる「会寺」は、安楽寺同様に地蔵院の末寺であったと云えよう。

※頭ノ上にも寺があったとされている。村上奥市兵衛に関わる寺であつたと思われるが不明である。ただ、考があったとされる場所は二か所が答されている。

向田八幅神社と地蔵の関係について

資料 4

超新前当神社別当太古八生口島漆村地蔵焼ナルモ中途リ本村大学須波安薬寺容液

※八橋神社(向田)は、生口島漆村地蔵の神宮寺であった。

(このことについては、八幡神社(向田)の明治以前の懐札等が無く、資料は得られていない

(当神社七体、肉田 八幅神社)

村上興市兵衛夫妻の薬

村上奥市兵衛と同井家との関わり

村上奥市兵衛が願主となり、小浦八幡宮を建立した際、当時、庄司代であった向井喜左衛門尚信が、これの山林大4反618歩を寄進している。

奥市兵衛の妻は、小浦八幡宮を建立する際、山林を寄進した、向井家の祖先である喜左衛門尚億の姉妹か子女であったと思われる。

村上奥市兵衛道盛の窓は、現在、安楽寺境内の意地に祀られているが、元々は、向井家の裏山に祀られていた。昭和61年(1986)、安楽寺大改修の際、現在の場所に移された。

p.99

15国境等の争い

伊幸神社(地神社)に見られる国境の争い

向田・演波(佐木)の途中の海境に、猿田彦命が祀られている辛神社と呼ばれている地神社がある。

この神社は、境の神と言われ、人の住む地域では、何事につけ一つの完結したまとまりが必要であり、ムラうちの@々の不幸は地域全体の悲しみであり、地域の緊栄は@々人の歓びと捉えられてきた。

そこで、人々は、ともに携えて幸せを求める努力をつづけ、反対に不幸の侵入を避けるべく万全の備えに努めてきた。

この願望を一身に負うてきたのがムラ境に立つ「サエノカミ」、漢字では「君の神」で、これが「幸神社」である。

この神社は、全国各地に存在しており、「サエノ神」は、一般的に、ムラ境の路傍に道祖神などと刻し

た石ツや猿田彦・清金剛・三の後を影刻した便申塔の場合もあり三界万塔などもあってその姿

は多様である。

「サエノ神」は、ムラ境に建立されているため、そこは接の境界線となり、紛争の種にもなっていた。

幸神社も違わず紛争の種となった。

は宝年間より、須波(佐木)・向田両村の「山境の件(国境)」として十年来の粉争が起こった。

このため、村間の皆障が続出し、争いは数度の出入りに及んだ。

天和3年(1683)、幸神社は、古くは現在地より∞30m、向田寄りにあったがこの山境の粉争のため佐木の住民が神社を現在地(佐木寄りに)に返をしたと伝えているが、貴多元年(1684)の出入りは

烈を感め、これがお、西村の在方役人は思く部役部免になったと云われている。

このことの解決のために、必代より左兵衛介(後の小浦八輪営第六代神主)並びに向田神主及び安

※寺住線三名が停役に命じられ、三名によって種々強度和議が図られた。

真家二年(1685)、覚書が交わされ粉手は収まった。

p.101

2くどし(久登志)山の山論

家保元年(1716)、向田野浦村須ノ上と須波村佐木との境のくどし(久登志)山で、山論が起こた。

この山は元禄14年(1701)建山となったが、須波が境界より内側に建てた山番小屋を頭ノ上が破壊したことによるものである。

この山論は、元文元年(1736)に至っても決着していないようで、「悪之島をもも、一旦端所と相成候告営象二相片付かず」と記されている。弘化4年(1847)、和談につき文書が取り交わされた。

3 山進入の悪合の申し入れ

文化6年(1809)

当村之香共山江参り候節、向田野浦村香姓山へ入込申候二付、懸合候。

人別

当村百袋額書(佐木)

久左衡門 利平 新助 利吉 勇助 利右衡門 利助 又兵衡 p八人

向田野浦村百姓頭書

政吉 豁次 利平 新五郎 思破 嘉三郎 栄助 照八

M八人

例向田・須波(佐木)の海藻の争い

文政12年(1829)

海藻の争いがあった。

筋の農民は海草を開料としたため、採取場所についてしばしば粉争が起きた。海上の境界は上の村境の延長線上に設定されるが、境界線の

延長方向が問題となり粉争が起きる。「佐木島草一件書」(向田野浦・西原家文書)によると、文政12年(1829)、須波村佐木と向田野浦村の境のほこやで向田から越境して甘藻(漆葉)を採る者がいるので、組頭をって申し入れたところ、向田野浦村は越境しないようにさせるという返答をした。しかし、の月16日にも1.8段の深採りが越境してきたので、佐木の農民が交渉に行ったが抵抗されて帰ってきた。そこへ向田の裏探り発に乗っていた者が3々柄物をもって追っかけてきた。騒ぎに応じて灯した村の高張還灯も彼らに壊され、おまけに佐木の農民一人が頭に傷を負わされて

気を失い重体となった。その上、相額の家へ押し入り流々しい言葉をはき、帰りには絵作を傷めつけた。17日に領波村圧が、肉田野浦村圧園に対して、越境業ばかりか公的器物の提灯まで壊し村役人の家に押し入るなどは不法な行為だ。と重に抗議したが、その結末については不明である。

(三原市

p.102

境界の粉争

延宝5年(1666)三原城主浅野忠真の時、三原近傍、西野、山中、木原、須波の五ケ村は三原浅野氏分となり、佐木島の北半分と小佐木島も浅野氏分に、半分の向田浦村は広島本藩の所管(広島添蔵入地)となった。

延宝年間延宝年間より須波・向田両村の山境の件につき営備続出争いに数度の出入りに及び十数年来の幼争となる。

天和3年(1683)宝より字にわたる十数年の同田との山境の紛争のため、幸神社を現在地に移した。

元禄14年(1701)久登志山が創建山となった

家保元年(1716)。須波(佐木)・領ノ上間で久登志山の予論が起こった。

元文元年(1736)久笠志山の予論は未だ決着していない。

弘化4年(1847)久登志山の予論が和談となり文害が取り交わされた。

文化6年(1809)向田・須波(佐木)の海藻の争いがあった。

文政12年(1829)向田・須波(佐木)の新山進入の懸合の申し入れ。

p.103

16神仏分離令による神道への移行

明治元年(1868)

太政官布告により、神仏分離令が発令された。

神仏混満(こんこう)を禁止する。

諸事司一新天下の改道思く神式の創薬にすて自今神仏の混(こんこう)一切りならぬ

伊神仏分離令・廃仏務釈

神仏分離(しんぶつぶんり)

明治維新政府の宗教政策で、神道と仏教とを分離しようとしたもの。

進新政府には、平田流神学者の影密力が強く、神祇官(しんぎかん)を再興し、神仏習合をじ、営を省(げんぞく)させ、神社内の仏像・仏

見などをとり除かせるとともに、寺院内の神社関係のものをも除いた。

このことは寺続への反感を教しくし、発仏装沢運動に進んだ。

廃仏毀釈(はいらつきじゃく)

明治政府の行った神仏分離とこれに伴っておこった仏教排撃運動をいう。

進新政府には平田派の神学者がいて、神の立場で指導にあたり、1868年に神仏分離令、1870年に神道による国民化をすすめるた

め大教室布を行った。

千年間、神仏が習合していたため、神社すら仏教色を一掃することは大事件であり、ひいては極遇な仏教非運動にまで進み、名地で仏像仏具が破棄され、堂塔の破壊もあった。

このような事件は2年余りでおさまったが、江戸時代に優遇されていた仏教は大打撃をうけたのである。

鳥居 石也

資料3

祭日十一月十四日、供物 御供神酒

外二腰林壱ケ処付居申候

寺建立年暦者碇与相知不申候得共、天正年中(1573~1591) 之頃、隆景公御家臣村上與市兵衛与申人建立之由申伝候、何之書留メも無御坐 檀家 細島 向島 佐木島にて百八拾三軒、

寺付田畠高 弌石四斗八升九合八勺 老石五斗六升七合六勺 島内檀家〇

地蔵院は、村上與市兵衛により中興された。

2 細島 向島 佐木島は、地蔵院の檀家であった。

九斗弐升二合二勺寺より納メ申候

※地蔵院は、「天暦3年(949)に建立され、大永年中 (1521~1527)に僧了秀によって中興された」とされていることから、天正年中(1573~ 1591)、村上與市兵衛により建立されたという資料(国郡志編集御用諸品書出 須波村 文化11年)は、建立ではなく、再建立であると思われる。 村上與市兵衛が地蔵院に関った年代は、小浦八幡宮の勧請や安楽寺の中興の天正年中であり、村上與市兵衛が地蔵院に関ったことは間違いない と思われる。

このことから、村上興市兵衛は、安楽寺と地蔵院の両寺に関わっていたことになる。また、安楽寺の檀家である佐木島、細島は、資料3の文書では、 地蔵院の檀家として記されており、佐木島、細島は、元々は地蔵院の檀家であった。

村上與市兵衛が、因島村上家の代官であつたことから考えると、細島が地蔵院の檀家であっても不思議なことではなく、佐木についても、天正9 年に小浦八幡宮を建立し佐木に関わっており、佐木が地蔵院の檀家であってもおかしくない。

したがって、地蔵院が興市兵衛によって再建立された後に、安楽寺が中興されたとするならば安楽寺は地蔵院の末寺であり、興市兵衛は、地蔵院 の檀家であった佐木島、細島を安楽寺の檀家に移し、安楽寺の確立を図ったものと考えられ、安楽寺の檀家に細島があると考えられる。

地蔵院と向田の関係について

□碑によれば、

次の口碑等にみられる様に、向田と地蔵院との関係は深く、その関わりは、村上與市兵衛に起因すると思われる。

小早川隆景公 具臣 村上興市兵衛と申人、当村、土井・みやふ之上二住居いたし居申候処、何之様子ケ不在候得共、三原より足軽御居込御召捕 被成候と聞伝申候、其後様子相分り不申候

(具臣一員数に入っているだけでなんの働きもしていない家来) ※当村とは、向田のことと思われる。村上興市兵衛は、土井・みやふ之上に住んでいた。

向田には、寺西という姓の家の隣に「空野」という家があり、地蔵院は、そこを宿元にしておられたと云われている。このことから考えると、向田 地域は地蔵院の檀家であったと思われる。

向田には、寺上(寺の上)という地名があり、寺西(寺の西側の家という意味だと云われてる)という姓や寺岡屋(寺の丘の家)という姓や屋号が あり、昔、その辺りに寺があったことを物語っている。いつ頃、寺が建ち、いつ頃なくなったのかは分っていない。

この寺上は、「ホウカイサン」とも呼ばれているが、口碑によれば、向田に寺があり、その寺は、佐木の安楽寺と同じ山号で、「宝篋山」と云い、 「宝

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村上與市兵衛夫妻の墓

村上興市兵衛と向井家との関わり

村上興市兵衛が願主となり、小浦八幡宮を建立した際、当時、庄司代であった向井喜左衛門尚信が、己れの 山林大4反6畝 16 歩を寄進している。

與市兵衛の妻は、小浦八幡宮を建立する際、山林を寄進した、向井家の祖先である喜左衛門尚信の姉妹か 子女であったと思われる。

村上與市兵衛直盛の墓は、現在、安楽寺境内の墓地に祀られているが、元々は、向井家の裏山に祀られてい た。昭和60年(1986)、安楽寺大改修の際、現在の場所に移された。

1 国境等の争い

1幸神社(地神社)に見られる国境の争い

向田・須波(佐木)の途中の海境に、猿田彦命が祀られている幸神社と呼ばれている地神社がある。

安寺中央拉海 小早川

この神社は、境の神と言われ、人の住む地域では、何事につけ一つの完結したまとまりが必要であり、ムラうちの個々の不幸は地域全体の悲し みであり、地域の繁栄は個々人の歓びと捉えられてきた。

そこで、人々は、ともに携えて幸せを求める努力をつづけ、反対に不幸の侵入を避けるべく万全の備えに努めてきた。 この願望を一身に負うてきたのがムラ境に立つ「サエノカミ」、漢字では「塞の神」で、これが「幸神社」である。

民生日双

今大道

幸神社

この神社は、全国各地に存在しており、「サエノ神」は、一般的に、ムラ境の路傍に道祖神などと刻し た石碑や猿田彦・青面金剛・三猿の像を彫刻した庚申塔の場合もあり三界万霊塔などもあってその姿 は多様である。

「サエノ神」は、ムラ境に建立されているため、そこは隣接の境界線となり、紛争の種にもなっていた。 幸神社も違わず紛争の種となった。

延宝年間より、須波(佐木)・向田両村の「山境の件(国境)」として十年来の紛争が起こった。 このため、両村間の喧嘩が続出し、争いは数度の出入りに及んだ。

天和 3 年(1683)、幸神社は、古くは現在地より南00m、向田寄りにあったがこの山境の紛争のため 佐木の住民が神社を現在地(佐木寄りに)に遷座したと伝えているが、貞享元年(1684)の出入りは熾 烈を極め、これが為、両村の在方役人は悉く御役御免になったと云われている。

このことの解決のために、郡代より左兵衛介(後の小浦八幡宮第六代神主)並びに向田神主及び安 楽寺住職三名が調停役に命じられ、三名によって種々斡旋和議が図られた。

貞享二年(1685)、覚書が交わされ紛争は収まった。

村上與市兵衛直盛夫妻の墓

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e

(くどし(久登志) 山の山論

享保元年(1716)、向田野浦村須ノ上と須波村佐木との境のくどし(久登志)山で、山論が起こた。

この山は元禄14年(1701) 御建山となったが、須波側が境界より内側に建てた山番小屋を須ノ上が破壊したことによるものである。

この山論は、元文元年(1736)に至っても決着していないようで、「善悪之論者兎も角も、一旦論所と相成候処者容易二相片付かず」と記されて いる。弘化4年(1847)、和談につき文書が取り交わされた。

1 薪山進入の懸合の申し入れ

人別

文化6年(1809) 当村之百姓共薪山江参り候節、向田野浦村百姓山へ入込申候二付、懸合申候。

向田野浦村百姓頭書

444 向田・須波(佐木)の海藻の争い

文政12年(1829) 海藻の争いがあった。

当村百姓頭書(佐木) 久左衛門 利平 新助 利吉 勇助 利右衛門 利助 又兵衛 政吉勝次利平 新五郎 忠蔵 嘉三郎 栄助 熊八

海岸部の農民は海草を肥料としたため、採取場所についてしばしば紛争が起きた。海上の境界は陸上の村境の延長線上に設定されるが、境界線の 延長方向が問題となり紛争が起きる。「佐木島藻草一件書」(向田野浦・西原家文書)によると、文政12年(1829)、須波村佐木と向田野浦村の境のほ こやで向田から越境して甘藻(藻葉)を採る者がいるので、組頭を遣って申し入れたところ、向田野浦村は越境しないようにさせるという返答をし た。しかし、6月16日にも 7,8艘の藻採り船が越境してきたので、佐木の農民が交渉に行ったが抵抗されて帰ってきた。そこへ向田の喪採り船に乗っ ていた者が銘々柄物をもって追っかけてきた。騒ぎに応じて灯した村の高張提灯も彼らに壊され、おまけに佐木の農民一人が頭に傷を負わされて 気を失い重体となった。その上、組頭の家へ押し入り荒々しい言葉をはき、帰りには綿作を傷めつけた。17日に須波村庄屋が、向田野浦村庄屋に対

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1

二月七ZF

佐木嶋 安楽寺

向田浦 神主 宇右衛門 佐木浦 神主 左兵衛

佐木嶋与頭 仁右衛門 殿 惣村衆中

幸神社

FE

WAKARMAVINTO' 7

16 神仏分離令による神道への移行

明治元年(1868) 太政官布告により、神仏分離令が発令された。

1神仏分離令・廃仏稀釈

神仏混淆(こんこう)を禁止する。

諸事御一新天下の政道悉く神武の創業に復す仍て自今神仏の混淆(こんこう)一切罷りならぬ。

神仏分離 (しんぶつぶんり)

明治維新政府の宗教政策で、神道と仏教とを分離しようとしたもの。

維新政府には、平田流神道学者の影響力が強く、神祇官(しんぎかん)を再興し、神仏習合を封じ、僧を還俗(げんぞく)させ、神社内の仏像・仏 具などをとり除かせるとともに、寺院内の神社関係のものをも除いた。

このことは寺院への反感を激しくし、廃仏毀釈運動に進んだ。

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

明治政府の行った神仏分離とこれに伴っておこった仏教排撃運動をいう。

維新政府には平田派の神道学者がいて、神道顕場の立場で指導にあたり、1868年に神仏分離令、1870年に神道による国民教化をすすめるた め大教宣布を行った。

千年間、神仏が習合していたため、神社すら仏教色を一掃することは大事件であり、ひいては極端な仏教排斥運動にまで進み、各地で仏像仏 具が破棄され、堂塔の破壊もあった。

このような事件は2年余りでおさまったが、江戸時代に優遇されていた仏教は大打撃をうけたのである。

〔保育社 現代百科大事典)

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