双鷺洲 (Sōroshū) — Section 9-4¶
Verbatim JA transcription of an archival/historical compendium (Edo-period cadastral & census records, temple/shrine & school history). Classical Japanese with transcription artifacts; NOT yet translated; quotes deeper primaries (三原市史, 須波村 survey docs). Native/historian review required.
明治8年(1875) 格明舎時代の校舎
明治8年、格明舎 (須ノ上小学校) は、 民家を買入れ草葺の校舎と教員住宅が造られ た。
大正2年に中校舎が新築されるまでは、この校舎によって教育が行われた。
中校舎が建設されて以後は、作法室・裁縫室として使われ、 戦後、 学級数の増加に伴 い畳敷きのまま普通教室として使われ、昭和 23 年、東側に新校舎が建設されて以後 は、特別教室として音楽室や図書室として使われた。
昭和40年、幼児園が開設されてからは、北側の教室が幼児園として使われた。
平成7年(1995)
平成元年(1989)
併設幼稚園が休園する。
鷺浦小学校が開校した。 須ノ上小学校・幼稚園が閉校・閉園し、鷺浦小学校・幼稚園として元鷺小学校の施設を利用して
スクールバスが運行開始。
明治19年(1886) 新築された校舎
このモダンな建物は、 明治19年に新築された校舎。 (三間、 七間の瓦葺平屋一棟) 明治19年に校舎が狭隘となり、 教育への厚い思いの中で新築された建物である。
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鷺浦村中央公民館 四氏の篤志寄付により建築された鷺浦村中央公民館。 多岐に渡って活用された。
(昭和 25 年 )
中校舎(昭和23年、 校舎が新 大正2年建てられた中校舎は、 4 教室 手前より低学年・中学年・高学年の教室で
そびえ立つポプラの大木。
南側から見た中央公民館
敬老会 (中央公民館での慰安会)
学校のシンボルとなっていたポプラのナ された際に伐採された。
昭和30年代の須ノ上小学校
昭和58年(1983) 新しく屋内運動場が建築され、 中央公民館はなくなった。
運動場の拡張と 東校舎が建つまでは、この場所は 校舎・運動場の拡張が計画され、昭 下の砂浜までトロッコのレールを敷き を運ぶと云う大変な作業が行われた そして、校舎 (4 教室) がそこに建て
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6須ノ上校在任十余年の回想
ゆく春を惜しみつ児等と丘に来て 花に歌えり 雲に語りぬ
金本
昭和二一年の新春、新米校長の私は教育への情熱と理想を胸に秘 めて鷺浦村須ノ上校へ赴任した。当時社会情勢は敗戦直後の荒廃 混迷の時代であったが、当佐木島の人達は純朴穏健で堅実な農業生 産にひたすら精励し、学校教育への関心は頗る高く協力的であっ た。
その頃須ノ上は四学級の複式校であったが、翌年度より六学級編 成となり村当局の理解と区民の献身的努力により四教室校舎が新 築され、校庭も大拡張、区民総出の奉仕作業で海浜の土砂をトロッ コで押し上げ、造成整地されたのである。
それに隣接の公会堂も近代的な鷺浦公民館に改築、ピアノの篤志 寄贈もあり学校の儀式や音楽室、雨天体育館として活用して学童 達は伸びのびと楽しく学習が出来、初夏の農繁期には臨時の託児
所として開設し、保育に不慣れの先生達が幼児を抱いたり肩によじ 登らせて遊ばせていた。この親愛感は小学校へ進んでからの師弟信 頼の糸口となってくれた。
学校経営に未熟な私をはじめ、教育経験の浅い若い教師が多く しばしば失敗もあったが、子供への愛情、教育への情熱はみんな旺 盛であった。春には学校近くの丘に咲き誇る桜の花を師弟相たずさ
男
えてたずね、歌い語らい楽しい交わりがなされ、夏になれば校庭か ら海岸に入り波に戯れ水泳を鍛えたのである。たまたま生口連合 +校の水泳競技大会にも優勝し、子供達に誇りと自信を持たせる ことが出来たのである。
昭和三十一年鷺浦村は三原市へ合併。学習面で旧市内各校と格 差があるのでは無いかと案じていたがなんら遜色無く、情操面では 純真誠実で実践力持久力等誇るものがあった。
現代の社会情勢に即応して鷺浦校として進展する今、前途の向 上発展を祈るのである。
(平成七年 閉校記念誌)
校庭の松
明治の頃、卒業記念に植えられたと 伝えられ、大きく育った松は学校のシン ボルとなり子どもたちの成長を見守っ てきた。 昭和 55年、校舎が鉄筋三階建 にかわった頃、 松くい虫によって枯れて しまった。
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解体直前の校舎裏庭
須ノ」
今まであった木造平屋建
校舎が新築された。
須ノ上小