双鷺洲 (Sōroshū) — Section 6-2¶
Verbatim JA transcription of an archival/historical compendium (Edo-period cadastral & census records, temple/shrine & school history). Classical Japanese with transcription artifacts; NOT yet translated; quotes deeper primaries (三原市史, 須波村 survey docs). Native/historian review required.
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文政5年(1822) 戸数7戸。
文政5年(1822) 小佐木島開作。1町4畝6歩
文政7年(1824) 上山のある場所と下山のある場所は、開地により、地続きになっていたのではないかと思われる。
文政9年(1826) 荒神社の棟札「建立三宝荒神〇安全」がある。
文政9年(1826) 「奉建小佐木島之神」の棟札がある。
天保□年(1830-1844) 荒神社に鳥居が寄進された。
天保7年(1836) 荒神社に燈籠2基が寄進された。
天保11年(1840) 吉村藤三郎 誕生
天保12年(1841) 荒神社に狛犬一対が寄進された。
天保12年(1841) 荒神社の棟札に「元屋 貞七」
安政6年(1859) 小浦神社本社葺替の棟札に、「小佐木組 貞七」の名がある。
文久3年(1863) 荒神社の拝殿の葺替がされ、棟札に「小佐木島役場 元屋 甚四郎」と記され
ている。
大森家の墓所に、屋号と思われる「元屋」という文字が刻されている。このこ
とから、天保12年の元屋 貞七、文久3年の元屋 甚四郎は、大森家の先祖(総
本家)であると思われる。また、元屋とは、「小佐木の元締め的な長の意味」
もあったと思われる。
文久3年(1863) 荒神社に 元屋甚四郎、新屋藤三郎が手洗石鉢を寄進した。
文久4年(1864) 安楽寺三宝荒神社造営の棟札に「長百姓格 元屋甚四郎」の名がある。
明治5年(1872) 小佐木の戸数 1戸 人口 16人。
明治13年(1880) 三島社の棟札「大山積大神正幣拝殿造営正札」がある。
明治13年(1880) 荒神社の棟札「天照皇大御神正幣拝殿造営正札」がある。
明治13年(1880) 荒神社に吉村藤三郎が額を奉納した。
明治13年(1880) 小佐木の戸数 15戸 人口 16人。
明治14年(1881) 荒神社に幸丸の板図面が奉納された。
明治14年(1881) 荒神社に、吉村保三郎が燈籠2基を寄進した。
明治16年(1881) 小佐木の戸数 15戸 人口77人。
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明治25年(1982) 荒神社本殿改築。明治の名工、安部信吉によって造られたとされている。
明治25年(1892) 生目社が建立された棟札「安芸国豊田郡小鷺島生目神社祭祀棟札」がある。
明治27年(1894) 小佐木灯台ができた。
明治28年(1895) 荒神社に、吉村藤三郎が手洗石鉢を寄進した。
明治34年(1901) 三原の勝馬宗兵衛によって開かれた佐木の塩田が小佐木の
吉村勘次郎の所有となった。小佐木浜と呼ばれた。
明治37年(1904) 明治37年~8年にかけて、小佐木の吉村藤三郎が佐木に塩田を開いた。
明治39年(1906) 荒神社に吉村菊太郎が注蓮柱を寄進した。(菊太郎は貯木場を経営していたと
云われている。)
この頃のことか?
豪邸を構えた吉村(吉村藤三郎)邸は
「瀬戸内の水は枯れても、ここの財産はなくならん」と喧伝されていた。
明治42年(1909) 小佐木の戸数 17戸。(吉村姓 11軒、大森姓4軒、是安姓2軒)
明治44年(1909) 鷺浦村須波(佐木・小佐木)の〇〇費納入金額
三円三九銭 吉村藤三郎(小佐木)
一円二四銭 吉村〇〇 (小佐木)
八九銭 吉村〇〇 (小佐木)
八五銭 〇〇〇〇〇(佐木)
大正4年(1915) 吉村藤三郎没 75歳。
大正5年(1916) 荒神社御殿の修繕がされた棟札「広島県豊田郡小鷺島荒神社御殿修繕」があ
る。
大正5年(1916) 小佐木島に糸崎ドックの造船所が計画され、船台など造られたが、完成に至ら
ず、造船はされなかった。
大正6年(1917) 吉村藤三郎の経営していた吉村造船所が吉村次太郎と吉村勘次郎によって、引
き継がれた。
大正7年(1918) 第一次大戦が終結し軍需景気が終り、大正8年、株の大暴落、企業倒産が続発
した。
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大正8年(1919) 吉村勘治郎·吉村(藤三郎)の所有していた佐木の塩田が重井の柏原重兵衛に移っ
た。
大正9年(1920) 吉村造船所が閉鎖した。
その後も高い造船技術をもつ小佐木では、昭和の初期まで6軒の造船所があ
り、三原、幸崎、吉和の漁船、近郷の農船の建造がされ、他所からの出稼ぎ大
工もかなりいた。 戦後、木造船から合成樹脂の船に変わり、小佐木の造船業はなくなった。
昭和15年(1940) 皇紀二千六百年を記念して、荒神社の葺替がされ、その棟札に「奉薑替穀津
神社」と記されている。
このとき、荒神社は神社名が「穀津神社」に変更された。
これ以後、小佐木では、荒神社は「穀津神社」として平成283年まで祀られ
てきた。
昭和19年(1944) 小佐木島北浦を陸軍兵器廠の燃料貯蔵所ができた。
昭和19年(1944) 小佐木島に七瀬から電線が引かれ電灯がついた。
昭和25年(1950) 拝殿の萱替修理がされた棟札「奉葺替修理小佐木荒神社正殿拝殿」がある。
昭和30年(1955) 小佐木の戸数11戸 人口90人
小佐木から本郷高校鷺浦分校へ通学する高校生、8人
昭和34年(1959) 小佐木の戸数25戸 (小中高生40人)
昭和34年(1959) 三原市により、通学渡船「しらさぎ丸」2tが進水し、個人船による通学は一
応解消された。
児童·生徒数は40人(税小学校、鷺浦中学校、本郷高校分校)。
昭和35年(1960) 穀津神社修理の棟札がある。
昭和38年(1963) 小佐木内港に鉄筋コンクリートの浮桟橋ができた。(総工費 618万円)
昭和44年(1967) 通学渡船二代目「しらさぎ丸」進水。
小佐木通学渡船建造期成同盟会が結成され、市の補助金を受け、4tデイゼル
エンジン8馬力の「しらさぎ丸」が 建造された。
昭和46年(1971) 穀津神社の葺替修理がされた。
昭和46年(1971) 小佐木の農道が整備され、49年に完成した。
昭和48年(1973) 小佐木の 戸数22戸 人口62人。小2人、中6人、高校生7人、計15人。
昭和48年(1973) 通学渡船待合所が完成した。
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児童・生徒数は4人(鷺小学校、鷺浦中学校、本郷高校分校)。
小佐木の戸数 22戸 人口5人はする
昭和60年(1985) 小佐木の 戸数22戸 人口61人
昭和52年(1977) 小佐木公民館ができた。
昭和52年(1977)
小佐木内埠頭を埋立鉄筋コンクリートフェリー桟橋が設置された。
昭和53年(1978) 小佐木島へ佐木尻川海岸から海底送水が出来るようになった。
昭和53年(1978) 鷺小学校へ通学する子はいなくなった。
昭和58年(1983) 穀津神社の葺替修理がされた。
昭和58年(1984) 小佐木の戸数 戸数 21戸、43人。
昭和59年(1984) 小佐木の戸数 戸数 21戸、43人。
60歳以下の者6人 三原市内通勤者4人。
平成3年(1991) 小佐木の戸数 戸数 20戸 人口41名。60歳以下の者はいなくなった。
平成9年(1997) 穀津神社の基礎廻廊修理がされた。
平成10年(1998) 小佐木の戸数 戸数 19戸、37人。
平成11年(1999) これまで就航していた向田発 小佐木-三原間の幸運丸(フエリーボート)が小佐
木港へ寄港しなくなり、 定期船就航の問題が三原市と小佐木島住民との間で
大きな問題となった。
平成11年(1999) 小佐木島出身の運輸会社社長大森博夫氏(7) 呉市在住が約300万円で購入した
フエリーが運行した。
平成7年(2005) 小佐木の戸数 戸数 8戸 人口18人。
平成23年(2011) 小佐木の戸数 戸数 8戸 人口11人。
平成23年(2011) 荒神社の拝殿が改修された棟札「奉荒神社拝殿改修竣工奉告祭一宇」があ
る。
平成23年(2011) 「穀津神社」と呼称されていた神社名が、「荒神社」の神社名に戻った。
平成25年(2013) 小佐木の戸数 戸数 6戸 人口10人。
平成27年(2015) 小佐木の戸数 戸数 6戸 人口8人。
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(2)吉村造船所と小佐木の繁栄
写真に見られる造船所の風景は、明治から大正にかけて、吉村藤三郎の経営する造船所によって繁栄した小佐木の風景である。
小佐木の明治時代の様子をみると、明治13年、荒神社の正幣拝殿や三島社の造営が行われ、また、吉村藤三郎の荒神社への奉納額や明治14年の大森豊平の船の板図面の奉納額から、この頃、規模は分からないが造船業が盛んであったことが分かる。
明治25年、本殿が再建され、生目社が勧請されている。本殿の再建には、明治の名工と云われた須波の阿部信吉が棟梁としてかかわっている。
明治の名工と云われる人物に神殿の再建を依頼したということは、地域全体が経済的に豊かであったことを物語っている。
明治時代、荒神社には多くが寄進されている。特に、吉村菊太郎によって寄進された注運柱は実に立派なもので、いかに経済的に裕福であったかということを物語っている。吉村菊太郎は造船に使う木材を、九州の宮崎に山をもち、小佐木に貯木場を経営し造船所で使う木材を用達していたと云われている。
明治34年には吉村勘治郎が佐木の塩田を所有し、明治3年には、吉村藤三郎によって佐木に塩田が造られている。これらの財源は造船業によるものと思われる。
写真に見られる大きな屋敷に 吉村藤三郎の屋敷である。このことからも経済的に如何 に裕福であったかが窺える。
また、明治42年の須波(佐木・小佐木)の○○税の納入金額からも、小佐木の吉村藤三郎 他小佐木の二名の方が他の方よりも群を抜いて多く納めている。
豪邸を構えた吉村家は、「瀬戸内の水は枯れてもここの財産はなくならん」と喧伝され ていたと云われることからも、これらは皆造船業による豊かさであったと思われる。
大正4年、藤三郎が亡くなったが、大正6年、吉村次太郎、吉村勘治郎によって、吉村造 船所は引き継がれた。
しかし、大正7年(1918)、第一次大戦が終結し軍需景気が終り、大正8年、株の大暴落、 企業倒産などが続発し、更に、糸崎・瀬戸田に新しく造船所ができ、吉村造船所も不況となり、吉村造船所はそのあおりを受けた。
小佐木の大造船所が見える風景
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大正8年(1919)、その対策に佐木の塩田も手放すなどされたが、残念ながら大正9年(1920)、吉村造船所は閉鎖された。
その後も高い造船技術をもつ小佐木では、木造船から合成樹脂の船に替わった昭和20年代まで6軒の造船所があり、三原、幸崎、吉和の漁船、近 郷の農船の建造がなされた。
(3)小佐木島の現況と課題
小佐木区長 岡本正徳
小佐木島は、明治の時代から、木造船の造船で栄えた島であった。
大正から昭和の初期までは、6軒の造船所があって、三原 幸崎・吉和の漁船、近郷の農船の建造でにぎわい、他所からの出稼ぎ大工もかなりあっ た。
戦時に入って、若者の多くが兵隊や徴用にとられ、新造船の注文も少なくなり、年寄りが修繕船を細々とやるようになり、造船ブームはすたれて いった。
昭和19年、島の北浦一帯が陸軍兵器廠の燃料貯蔵所となり、佐木の七瀬の山から電線が引かれ、小佐木にも初めて電気がつくようになった。 戦後は、食糧増産のため、山の上まで開墾して、芋・麦の生産にはげみ、暖かい地の利を生かし、キヌサヤエンドウも植えられるようになった。 しかし、高度経済成長にともない、若者が都会に職を求めて出るようになり、小学校に通学する子どもも、昭和53年からいなくなってしまった。
私たちは、臨海地埋立の土砂採集地に、業者から持ち込まれた上山の売却について、幾夜も集まって相談し、跡地に何かの産業を起こすことを条件に、島の活性化につながることとして同意したが、問題があって工事が中座しておることは、大変残念なことである。
三原商工会議所・山文観光が開発して、一時栄えた海水浴場も今は閉鎖されている。
昭和46年頃から、離島振興の特別措置によって、島の基盤整備が進められるようになり、護岸工事・一周道路・港湾整備・桟橋の設置等、次々と進 められてきたが、戸数 20戸、人口41名、その中でも60歳以下の者が僅か6人で三原市内通勤者4人という年寄りばかりの島となってしまった。
昭和53年には、佐木の尻川から海底送水がされ、水道も全家庭にゆきわたり、天然の海の資源にも恵まれ、風光明媚なわが郷土小佐木島である が、小佐木島の発展は、交通船便の開発以外にないと思っている。
(昭和53年 記)
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(4)通学渡船
小佐木には学校がない。適齢期になった子どもたちは対岸の佐木の学校に通う。
対岸の佐木までは、約三百け離れた柄鎌の瀬戸を個人の手漕ぎの小さな木造の農船で通う。
柄鎌の瀬戸は、別名七瀬の瀬戸と呼ばれ、内海で七つの急流の一つと云われ、潮が速く、手漕ぎの農船では潮に流され、いつも危険を感じながらの日々であつた。
雨の日も風の強い日も、小さな木造船を操り船を動かす。大人たちは、常に気の休まることのない大変なものであった。
船頭は、地元の大人たちの申し合せにより一年交代の輪番制で通学船を担当した。
船頭は男の人とは限らず、男の人がいないときは、女の人が贈を灣ぎ迎えに行った。
迎えを頼む子どもたちの合図も、大声で呼ぶ原始的方法からラッバやほら貝を吹く、たき火の利用と変化した。
佐木の尻川海岸に「白旗がスルスルと揚がる」学校がすんだのを知らせる子どもたちの合図だ。しかし、船頭さんも仕事をしながらの担当だ。気がつかないこともあった。
昭和34年(1959)、三原市によって「しらさぎ丸」2tの機械船が進水し、個人船による通学は一応解消された。続いて、昭和42年(1967)には、4.8tデイゼルエンジン8馬力の二代「しらさぎ丸」が進水した。この結果、船頭の問題も解消されるなど多くの課題が改善され、子どもたちが安心して通学できる体制が整ってきた。
昭和53年(1978)、過疎化が進み、佐木の学校へ通う子どもはいなくなり、通学渡船はなくなった。
(5)はやく帰りたい
辛くなった。
5年0さんの作文
わたしが尻川の暗い小屋のまわりで遊んだり、中に入って火をたいているとき、佐木の人たちは、とっくに家に帰っているのに、わたしたちは早 く帰れない。なかなか船がむかえに来てくれないときなどは泣きたくなる。小屋のほとりで船を待っているとき、わたしの家のあかりが見える と、もう、みんな帰っているんだなあと思う。あの家にわたしも早く帰って勉強したりテレビを見たりしたいなあと思う。 中学生5人、小学生4 人の全員がそろったら旗をあげて合図することになっているが、小学生と中学生は帰る時間がちがうので、全員そろうまで旗があげられない。 11月ごろになると日が早く暮れるので全員そろうころは、もう旗が見えないので旗をあげても船が来ない。どうしても船が来ないときは「む
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かにきてくれ!」とか「おーい」とかみんなで家の方へ向っておらぶ。
それでも船が来ないときは、小屋の中で火をたき竹をもやして海岸へさしておきます。そうすると、火が見えてむかえに来てくれる。 船が来るのを待つ間、寒いので海岸を走ったり、小屋の中で火をたいたりして待つ。
合図をして船が近づいてくると ああやっと帰れるとうれしくなる。
-後略-
一九七二年度「鷺浦教育白書」。
(6)寄贈されたフェリーボートの運航
平成11年、これまで就航していた向田発-小佐木-三原間のフェリーボ ートが小佐木港へ寄港しなくなり、定期船就航が大きな問題となった。 この問題に対して、小佐木出身で呉市在住の運送会社を経営する大森 博夫氏(当時7)によりフェリーボートが寄贈された。
平成11年、小佐木島の人たちの自主管理による、一日、往復4便の小佐 木 三原間の運航がはじまった。
小佐木の人たちにとって大きな問題であった船便が大森氏の篤志寄付 により解決し、人も乗れ、車も積め、しかも便数が増え大変便利になった ことに感謝と喜びに湧いた。
しかし、フェリーの燃料の高騰をはじめ諸経費がかさみ自主運営がし辛くなった。
平成17年、フェリーの運航は中止(12月14日)となった。
現在、三原-瀬戸田間を往復する高速船が寄港している。
大森氏の寄贈を受けたフェリーボート。
(平成11年~17年まで運航)
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(7)小佐木に残る「糸崎造船所の船台跡」について
小佐木の北浦には、造船所の「船台」の跡が残っている。小佐木では、これは、糸崎船渠株式会社が建造した造船所の船台であると伝えている。
大正5年、造られたと云われ、造られたものの、この船台を使っての造船は一隻もなかったと云われている。
確かに、次のような糸崎船渠株式会社による小佐木においての造船計画があり、その「糸荷船渠株式会社」(創立趣意書、事業目論見書、仮定款)の計画書では、
趣意書には、「小佐木島二地ラトジ船渠業並二造船修理ラ営マントス ··· 」
定款には、「第二条 当会社ハ本社习大阪市二置キ工場ラ広島県豊田郡小佐木島二設置シ必要二際シテハ出張所又ハ事務所糸碕其他適当箇所二設ク」
と、記されており、北浦にある船台跡は、このことを物語っている。
糸碕船渠株式会社創立趣意書
-前略-
即チ、瀬戸内海枢要ノ航路ニシテ 大小ノ船舶 織ルガ如キ、三原瀬戸内 小佐木島二地ヲトシ船渠業並二造船修理ヲ営マントス
抑モ 此島タル清水頗ル潤澤二土質硬クシテ堅渠ヲ穿ツニ最適シ 周囲水深クシテ大船ヲ繋グ二足ルベク、又、山陽二冠タル枢要港 糸崎八 海上 半里二充タザル対岸二アリ、呉軍港宇品港ト相近ク 大阪門司ノ中間二位シ絶好ノ地タルヲ失ハズ、故ヲ以テ斯業二意アル者ノ的タリシヲ、幸二能ク 機先ヲ制スルコトヲ得テ、既二船渠並二造船業二適スル地区全部二亙リ購入ヲ了リ、海面六千余坪埋立ノ認許ヲ得タリ、而シテ劈頭先ヅ船渠ヲ造リ、 着々小型船舟ノ修理工事ヲ行ヒツ傍ヲ乾船渠ノ土工々事等ヲ急ガントス、故ヲ以テ会社創立ノ暁二於テハ既二己二一部ノ事業ハ其実績ヲ挙ゲツ アル可キナリ
-後略-
糸碕船渠株式会社定款
第一章 総則
第一条 当会社々名ヲ糸碕船渠株式会社ト称ス
第二条 当会社八本社ヲ大阪市二置キ工場ヲ広島県豊田郡小佐木島二設置シ必要二際シテハ出張所又八事務所ヲ糸碕其他適当箇所二設ク 第三条 当会社営業ノ目的左ノ如シ
一、船渠及救難事業
二、船舶汽機汽缶器械類ノ新造修理及之二関連セル木工鉄工品の製作販売
-後略-
資料(広島県統計書、工場通覧)からは、糸碕造船株式会社が小佐木に造船所を建設したという記載は見当たらない。
「工場通覧」には、糸崎造船株式会社による造船所の建設については次のような記載があるが、所在地は、「御調郡糸崎町」となっている。
工場名称 糸崎造船株式会社
製品種類 木造帆船、補助機関付木造帆船
所在地 御調郡 糸崎町
工場主名 糸崎造船株式会社
創業年月 大正6・7年
職工数 男 108
小佐木北浦には、船台の跡は在るものの「船の建造はされなかった」という言い伝えを考えると、当初は、小佐木島に造船所建設の計画が立て られ、用地買収も終り、海面埋立の認許も得、船台も造られたものの、何かの理由から、この計画が変更になり、小佐木に代わって糸碕に造船所 が建設されたものと思われる。
したがって、小佐木の糸崎造船所は、幻の造船所となり船の建造が無かったのは、そのためであると思われる。