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双鷺洲 (Sōroshū) — Section 7-1

Verbatim JA transcription of an archival/historical compendium (Edo-period cadastral & census records, temple/shrine & school history). Classical Japanese with transcription artifacts; NOT yet translated; quotes deeper primaries (三原市史, 須波村 survey docs). Native/historian review required.

p.128

20.真言宗 寶篋山 安楽寺

真言宗 寶篋山 安楽寺 寂静院

安楽寺は、現在地より北の「平の谷」にあった「敬運坊」という小庵を移したもの。

安楽寺は、寶篋山と号し、天正19年(1591)、小早川家臣村上與市兵衛直盛が中興し、自分の念持仏である大日如来を安置したと伝えられている。

その後、衰廃したが、五世住職 宥信忍長の時、中興す。

当時は、生口島澤村地蔵院の末寺であったが、天保4年、京都仁和寺の末寺となった。

宗派 真言宗

本尊 大日如来。

宇宙を照らす太陽で、万物の慈母と説かれている。

真言宗の本尊。

檀家 佐木島

細島

寶篋山 安楽寺 寂静院

p.129

(1)安楽寺 歴代住職

村上與市兵衛直盛

天正19年(1591)、安楽寺は、現在地より北の「平の谷」にあった「敬蓮坊」という小庵を移した もので、天正15年(1591)、小早川家臣村上興市兵衛直盛が中興し、自分の念持仏である大日如 来を安置したと伝えられている。

宥 真 (初代 安楽寺 住職 宥真)

漢文3年(1663) この頃より過去帳が整っている。

寛文9年(1669) 宥真寂

宥 尊 (2代 安楽寺 住職 宥尊)

宝永7年(1710) 宥尊 寂

宥 遍 (3代 安楽寺 住職 宥遍 )

享保14年(1729) 安楽寺破損のため再建。世話人に藤井治兵衛、半次郎、仁兵衛が当った。

寄附割当てとして

佐木 300目 須ノ上 200目 (銀匁)

向田 300目 細島 200目

寛保2年(1742) 宥遍 寂

実道 ( 4 代 安楽寺 住職 実道)

天文4年(1739) 三原城主家従村上孫兵衛貞好ら安楽寺に献額した。

宝暦 7 年(1757) 実道寂

p.130

有信忍長 (5代 安楽寺 住職 有信忍長)

宝暦年中、有信忍長 衰退した安楽寺を興した。安楽寺中興の主と称せられ、大いに風俗を改良し、また、干拓して水田をつくり、郷池を整備され、農業の振興に貢献された。

安永8年の小浦八幡宮の棟札に「遷宮導師安楽寺現住大阿遮梨有信忍長」と記されている。

宝曆年中 衰退した安楽寺を興した。安楽寺中興の主。

宝暦14年(1764) 三界万靈塔 電川孫三郎 建立。

安永5年(1776) 安楽寺庫裡 再建。

安永8年(1779)安楽寺の修理。

文化2年(1805) この頃、因島重井より嫁に来た人が密かに「くさりにくいさつまいも」を伝え

たと言われている。

天明6年(1786) 佐木寺山に 西国三十三所観音 建立。

文化2年(1805) 有信忍長 寂(在住48年)

宥意忍山 (6代 安楽寺 住職 宥意忍山)

安楽寺中興の主と称せられている。佐木の干拓を興し、槙が坪新田を約20年かかって完成させ、佐木の開発に大きな功績を残された。

また、安楽寺、きざはし(階)を起工し、芋観音を建立したとされるなど、安楽寺境内の整備に心された。

文化13年の小浦八幡宮の棟札に「遷宮導師安楽寺現住権大僧都宥意忍山法師」と記されている。

文化11年(1814) 和霊石地蔵は、「国郡志下調諸品書出」に佐木島須波村分安楽寺抱えと記されている。

文化11年(1814) 安楽寺きざはし(段)造営。石材は、向田の割石島から運ばれた。

文化11年(1814) 寺山中腹の「芋観音」ができたという説がある。

文政9年(1826) 宥意忍山により、干拓を興し、槙ケ坪新田を約20年かかって完成させた。

文政9年(1826) 宥意忍山寂 (在住21年)

p.131

忍性宥海(7代 安楽寺 住職 忍性宥海)

佐木、川原敏氏祖先。安楽寺、本堂を再建した。

天保4年の小浦八幡宮の棟札に「遷宮導師安楽寺阿遮梨忍性宥海」と記されている。

文政13年(1830) 本堂を再建した。

天保4年(1833) 生口島地蔵院の末寺であったが、京都仁和寺の末寺にかわった。

天保8年(1837) 安楽寺に三界万霊塔・六地蔵 建立。

寄進 三界万霊塔 当村中 世話人 沖 豐八 西原貞八

六地蔵 岡野平兵衛 西原貞八平野伝右衛門 広源兵衛 亀川愛蔵 広本屋栄助

天保8年(1837) 隠居(在住25年)

安政6年(1859) 忍性宥海 寂

良応宥澄 (8代 安楽寺 住職 良応宥澄)

良応は、御調郡木の庄村の人で、天保8年に入山した。上人と呼ばれ、頼山陽の門弟にして、宮原竜と並ぶ深い学識をもった人であったと云われ ている。近隣識者との交流も広く、偉い僧侶であったとみえ、京都仁和寺に行き寺格を尾道西国寺と同格にした。

寺子屋を開くなど島の文化教育に功績を残した。宝経塔を建立した。

文久4年の荒神社の棟札には「安楽寺権大僧都良應上人」と記されている。

天保8年(1837) 入山。

天保12年(1841) 内陣の千手観音 西原庄蔵 安置

天保12年(1841) 向田寺上の供養塔に導師安楽寺良応と刻されている。

嘉永2年(1849) 京都仁和寺に行き 寺格を尾道西国寺と同格にした。

嘉永2年(1849) 和霊石地蔵の法要塔に導師安楽寺良応上人と刻されている。

文久3年(1863) 安楽寺に宝経塔建立。

明治3年(1870) 観音堂(芋観音)が改築 ? された。

p.132

明治5年(1872) 良応退院。隱居。(在住98年)

明治9年(1876) 良応有澄 寂

恵応忍鎧 (9代 安楽寺 住職 恵応忍鏡 )

良応上人の意志を継ぎ、三原城の「御成御門」を安楽寺の山門として移築した。鷺小学校の初代舎長。

明治3年(1874) 客殿薑替え

明治9年(1876) 恵応忍鎧 鯊小学校の前身「開成舎」初代舎長。

明治10年(1877) 良応上人の意志を継ぎ、三原城の「御成御門」を浅野右近より資いうけ安楽

寺の山門として移築した。

明治15年(1882) 観音堂(芋観音)が改築された。発願 白須毛三郎。

明治30年(1897) 恵応忍鎧 寂(在住26年)

最上良寿 (10代 安楽寺 住職 最上良寿 )

芦品郡宜山村の人で明治32年入山した。

明治32年(1899) 入山。

昭和7年(1932) 不動明王を祀る。

昭和7年(1932) 隠居用離れ座敷を建てる。(在住35年))。

昭和14年(1939) 最上良寿寂

片山宏円(11代 安楽寺 住職 片山宏円)

宏円は、尾道西国寺佐伯僧正の門弟で、昭和7年、入山した。京都醍醐寺の末寺にかわった。方面委員をされるなど村のために尽力された。

昭和7年(1932) 入山。

昭和14年(1939) 観音堂(芋観音)を再建する。

p.133

昭和22年(1947) 鐘楼を建立する。

昭和26年(1951) 庫裡葺替え

昭和35年(1970) 頃 京都醍醐寺の末寺にかわった。

昭和54年(1979) 安楽寺山門 三原市重要文化財に指定される。

昭和57年(1982) 片山宏円 寂

片山公雄(12代 安楽寺 住職 片山公雄 )

父 宏円住職の後を継いだ。

昭和58年(1983)  水子地蔵 建立。

昭和58年(1984)  弘法大師千百五十回忌の塔建立。

昭和60年(1986) 安楽寺修復工事(本堂、庫裡、山門、離れ座敷、宝経塔建替)が行われた。(総

工費 7000 万円)

檀家総代長(佐木区長) 白須俊三

檀家総代 (佐木) 引地卓司、白須勲二、白須弘一、田中悦夫

(須ノ上) 山根耕一、湯浅行二

(細) 鈴江幸春

(小佐木) 大森行雄

事務 御畑正德

会計 引地 正

平成9年(1997) 片山公雄 寂

p.134

(2)西国三十三観音

天明6年(1786)、安楽寺 寺山に西国三十三観音建立

寺山には、三十三の観音さまが建立されている。これは、飢饉の連続で多くの餓死者を出した江戸時代、特に、享保、天明、天保の三代飢経と言われる飢饉の中で、天明2年からはじまった全国的な大飢經のときに、多くの餓死者を出した事から、全国各地で、仏心深い信者によって随所に観音さまが安置され、大飢饉から難を逃れ、生活の安泰を願って、霊場が設けられたことに由来するものである。

安楽寺でも、第五世有信忍長住職が信徒に家内安全·五穀豊稿を祈願し、西国三十三観音を寺山に安置することを願った。それにより、天明6年(1786)、信徒の有志が一ずつ観音さまを寺山に建立安置した。

また、この西国三十三観音が建立された際、観音さまを寺山に建立した信徒の家には、安楽寺住職第五世宥信忍長より厨子に納められた観音さまが贈られ、感謝の気持ちと家内安全、五穀豊稱、さらに、一層の仏心の高揚が願われた。

寺山に建立された第一番如意輪観

寄進 御畑○○ (御畑益宏氏祖先)

安楽寺より観音像の建立者の家に貯

られた厨子に納められた観音さま。


三十三観音とは

観音菩薩は、正しく は観世音菩薩といい、 三十三の姿に変身し、大慈大悲をもって、衆生を救う菩薩で一般 に「観音さま」と呼ば れ親しまれている。


p.135

天明の飢饉

わが国の飢饉の歴史は、ほとんど慢性的であった。特に、ひどかったのが、天明と天保の飢饉であったとされている。

天明2年(1782) 瀬戸内・九州大凶荒

天明3年(1783) 諸国大飢饉・奥羽地方餓死多数

天明4年(1784) 春夏、諸国飢饉・農村荒廃

天明5年(1785) 奥羽飢饉

天明6年(1786) 諸国大凶作

天明7年(1787) 諸国大飢饉

ある記録から

・天明3年(1783) は、秋田藩はもとより、東北諸藩を大飢饉が襲った。能書を残した秋田郡七日市村の肝いり・長崎七左衛門は、この惨状を次の ように記している。

「幼児は捨てられ、父母を探し迷う姿は、まるで地獄である。路上での追いはぎ・強盗の様は修羅場と言える。かわいそうにと幼児の手に食物を握 らせると、その親が奪い取って自分で食べてしまう。全く親子兄弟の情もなく、畜生道という有り様だった。」

・天明4年(1784)の兵庫県のある寺の過去帳には、

満鉢盛飯 信士 と書かれた戒名がある。

飢饉により、餓死した者にあなたは大変なおもいで亡くなられました。「冥土へ行ったら、あなたの願いであった飯が、山盛り食べられるように願 っています。」という和尚のはなむけの気持ちをもつ戒名であると記されている。

(4) 西国三十三観音霊場

西国三十三観音霊場は、全国で最も古い歴史をもつ霊場で、奈良時代初期、養老2年 (718年) 安置されたと伝えられている。

これは、この年、瀕死の病床にあった長谷寺の得道上人の夢枕に閻魔大王が現れ、三十三の観音霊場を広めて悩める衆生を救うように命じられ