双鷺洲 (Sōroshū) — Section 11-5¶
Verbatim JA transcription of an archival/historical compendium (Edo-period cadastral & census records, temple/shrine & school history). Classical Japanese with transcription artifacts; NOT yet translated; quotes deeper primaries (三原市史, 須波村 survey docs). Native/historian review required.
p.258
キュウイモとは異なる甘味や形をしたイモであった。
話を聞くと、日照りに強く畑で作れる作物で、しかも収量も多くて腐りにくい上に主食がわりとなり飢えが凌げることを知った。当時、郷里大三島では、旱魃や飢にみまわれていたことを思い、吉十郎は何としてもさつまいもを持ち帰りたいと願った。
一説によれば、当時、さつまいもは、藩外への持ち出しは藩主の許可がなくてはできなかったと言われていたが、さつまいも5個を買い受け、行者の負子に隠し、正徳元年(1711)、瀬戸村に持ち帰った。それが瀬戸内の島々に広がったと云われている。
宝暦5年(1755)、82歳で亡くなった下見吉十郎は、大三島瀬戸の向雲寺の後の丘の頂上に葬られ、「古岩独釣士」と成名が刻された。
米の乏しい瀬戸内の島々で腹いっぱい食べられるのは、吉十郎の伝えたイモのおかげだと吉十郎の功績を称えてきた島の人たちは、その恩恵を形に表そうと吉十郎、没後95年に、大三島大通寺に『芋地蔵』を建立した。
大正7年(1918)、「延寿遊行菩薩古岩独釣居士」の唱名を贈り彰徳理を建立、吉十郎の徳を称えた。
以後、各地に吉十郎の甘語地蔵は、芋観音、芋地蔵として瀬戸内一帯に祀られ、感謝の誠が奉げられてきた。
井戸平左衛門
井戸平左衛門は、大和国(奈良県)の井戸村の人で、31才で幕府の御勘定になり、享保16年(1731)、60才で石洲の大森銀山代官として天領の石見・備中・備後を支配した。
享保16年、平左衛門が石見へやって来た年、享保の大飢といわれるウンカによる大凶作に遭遇した。領内を巡視した平左衛門は、その土地の劣悪さに驚き、「どうしたら、この土地が改良できるのか」日夜考え続けたと言われている。
たまたま、九州から来た坊さんからサツマイモなら地味の悪い所でもよく育つということを聞き、早速、種イモを取り寄せ、試作し研究を重ねて石見一帯に広めた。このイモは、すぐ出雲・伯耆(ホウキ)・因幡と山陰一帯に広がったと云われている。
しかし、続いて享保17年(1732)も大凶作であったことから、平左衛門は、サツマイモ栽培を奨励する一方、幕府の命を待たず、陣屋の蔵を開いて民を救ったと言われている。
幕府の命によらないで、手にお金や米を出したということから平左衛門は『免され切腹を命ぜられ、享保17年(1732)、62歳で亡くなった。
岡山県笠岡の「威徳寺」に埋葬され、法号を「泰雲院殿儀岳良忠大居士」となり、「芋代官」として人々に感謝されている。
島根県大森町にも、「井戸神社」が建立され、平左衛門の徳を称えている。
また、その恩を感じていた人々は、平左衛門を「イモ殿様」とあがめ、中国地方の各地のどの村でも、どの家でも、石碑が建てられ、その数は所に及ぶという。
p.259
人々は、平左衛門を偲び、どんなに暮しが楽になっても、平左衛門の教えてくれたサツマイモを少しでも作って、その徳を偲んできたと云われてい る。
因島の正善寺にも、「泰雲院殿儀岳良忠大居士」(院殿大居士)と法名がついている平左衛門の石碑が建てられている。
のちの世のおしえぐさともなりにけり
きみがうえつる 畑のからいも
加藤義清によって奉げられている。
青木昆陽
享保13年(1734)、甘藷先生と呼ばれた青木昆陽が幕府の命をうけて、江戸の小石川養生所にさつまいもの種子を植え栽培した。 やがて関東地方に広がった。
千葉県幕張町「昆陽神社」が建立され祀られた。
工、さつまいもの伝播
寛文年間(1661~73) の頃、竹原の村上休広が琉球からさつまいもの種子を持ち帰り付近一帯に広めた。
前田利右衛門 琉球よりさつまいもの種子を持ち帰り薩摩に広めた。
利右衛門は、鹿児島県指宿の徳光神社に祀られている。
エ、さつまいもの伝播
寛文年間(1661~73)の頃、竹原の村上休広が琉球からさつまいもの種子を持ち帰り付近一帯に広めた。
天和3年(1683)
生口島、高根島村、向田村、因島重井村、岩城島などへさつまいもの種子が配られた。
宝永2年(1705)
前田利右衛門 琉球よりさつまいもの種子を持ち帰り薩摩に広めた。
利右衛門は、鹿児島県指宿の徳光神社に祀られている。
正徳年(1711)
下見吉十郎(大三島瀬戸村)が薩摩伊集院村の土兵衛から、くさり難いさつまいもの種子を貰い受け、持ち帰り広めた。
吉十郎は、大三島瀬戸崎村の向雲寺に祀られている。
正德3年(1713)
享保10年(1725)
享保16年(1731)
この頃、吉十郎の伝えた、さつまいもが向田野浦村に伝わったものと思われる。
石川沿岸の惨事。
石見(島根)の代官、井戸平左衛門が薩摩から、さつまいもを取寄せ広めた。
岡山県笠岡で62歳で亡くなった
p.260
平左衛門は、笠岡、威徳寺・島根県大森町の井戸神社に祀られている。
享保19年(1734)甘語先生と呼ばれた青木昆陽が幕府の命をうけて、江戸の小石川養生所にさつまいもの種子を植え栽培した。
宝曆5年(1755)下見吉十郎(82歳)が亡くなり、大三島瀬戸崎村の向雲寺に葬られた。
天明3年(1783)大飢運。
文化2年(1805)因島重井村より、佐木へ嫁にきた人が腐りにくいさつまいもを伝えたと云われている。
文化1年(1814)早駆にみまわれた。
文化11年(1814)佐木寺山に芋観音が建立されたと云われている。
文政6年(1823)佐木で芋の植え付けがされている。
文政6年(1823)全国で日早(ひでり)が続づいた。
嘉永3年(1850)吉十郎の没後g5年、吉十郎を祀った最初の「芋地蔵」が大三島浦大通寺に建立された。
明治2年(1869)佐木島凶作。
明治3年(1870)佐木寺山の芋観音が改修された。
明治36年(1903)大三島から嫁にきた平木キシによって、須ノ上に芋観音が建立された。
大正7年(1918)吉十郎の命日に法要を営み「延寿遊行菩薩古岩独居士」の唱名を贈り、彰徳碑が建立された。
昭和3年(1928)須ノ上、小湯舟山に建立された石仏群が芋観音と呼ばれている。
昭和 21年(1946)御畑興市(佐木)が甘話つくり日本一になった。
昭和23年(1948)街畑興市が、昭和天皇の御前高話を行った。
昭和40年(1965)
この頃まで、さつまいもは主要な農産物として栽培された。
p.261
12除虫菊
除虫菊の伝播は、明治43年(1910)頃、因島重井の村上勘兵衛によって伝えられた。 さぎしまでは、除虫菊は換金作物のうち最も収入になった作物だと云われている。 昭和30年(1955)頃まで作られ、蚤取粉や蚊取り線香の原料となっていた。
春先に植えた除虫菊の苗は、ひと冬を越し翌年の5月から6月にかけ、白い花を咲かせ、畑一面に咲いた 白い花は白銀の花といわれ、収穫時期には島が真っ白い除虫菊の花で、みごとな景観を醸しだしていた。 発芽から開花まで17~19ヶ月かかり、雨が多ければ株細りの原因となる菌核病がはやり、日照りが続く とダニやスリップスなどの害虫がわくといった注意と手間のかかる仕事であった。
人々は収穫を目の前にした白く彩られた除虫菊の花の美しさには格別の歓びがあった。
収穫は、黄色い花芯がこんもりと盛り上がり、花びらが少ししおれた頃、いよいよ収穫に取り掛かる。 畑のどこから始めるか、いつなら雨に降られず作業できるか。大変な思いで作業がなされた。輪作のため、 株は根こそぎ抜き取られ、力と根気が頼りの重労働であったと云われている。
収穫した除虫菊の花は、すぐに乾燥させなければならない。集めたまま放っておくと、たちまち蒸れて発 酵が始まり、殺虫成分のピレトリンが失われてしまう。
花は、その場で千歯にかけ、天日で乾燥させるため、収穫を終えると、すぐ次の作業が待っていた。
庭など広い日のあたる場所にむしろを敷き、むらができないよう気を配りながら、花を薄く均等に広げ、 日に数回かき混ぜ乾燥させた。
除虫菊の収穫時期が丁度梅雨入り前の雨のよく降る時期のため、雨にあい花がぬれないように、天候に は刈り入れ時と同様、特に注意がはらわれた。
出荷時には、品質検査があり、「1等品」「2等品」「3等品」と格付けされるため最後まで気のぬけない作 業であったと云われている。
畑では、続けてサツマイモが栽培され、年が明けて春が来ると、また除虫菊の苗が植えられる。
p.262
13米つくり
米つくりは、米の字に表されるように八十八の手を経て米になると言われるほど、人手のかかる作物であった。
まして、平地の少ないさぎしまでの米づくりは大変な思いの中での作業であったと思われる。
如何にして一粒でも多く収穫するか苦労の連続であり、四月、苗床がつくられ、もみ蒔きに始まり、六月になると田植えが始まる。田植えは、普通は、親類を中心にして大勢でお互いに助け合いにより行われた。
田植えは、男子は土地の堅地や縄張り・苗配りをし、女子を中心に苗が植えられた。田植えが終わると各農家では「さんぼうさん」(三宝様)といって、田に酒・洗米・タコ(魚)を供え豊作を祈願した。また、田植えの終わった農家では、その日、豊作祈願と共に、無賃の労働(こうろく)に対してご馳走をつくって持て成しをした。
地域全ての田植えが終わると、「虫送り」と云う地域の行事が行われ、人々は農作業を休み、氏神様に参拝し豊作を祈願した。
草取りとともに水の少ない島にあって、田んぼに水を必要とする夏場の作業は大変なものであった。
多くの田んぽに井戸が掘られ、「はね木」が建てられ、「おけ」を使って水を汲み上げる作業が暑い夏の間中続けられた。朝夕2回の水汲みは一日も休むことのできない大切な仕事で、大人だけでなく子どもも共に働いた。
無事台風を乗り越え稔った稲は、今度は一株一株手作業で刈り取られ、その後もはぜに掛け乾燥させ、それが済むと脱穀をし、籾米にした。
今度はその初米を玄米にするための脱穀をし、やっと米になる。
はね木(はねつるべ)
テコの原理が使われ、支柱で支えた一方の 端に桶を、もう一方の端に重石を括り付け、 支柱にはモロギなど硬い木が使われていた。 桶は、一つの田んぼがすむと次の田んぼで 使うため、取り外しの良い様に、図のような 仕組みが工夫されていた。
稲刈り
刈り取られた稲はハゼ木にかけ干された
木の又などを使う
竹竿の先が割ってある
石をくくりつける
栓を竹竿の先に差込む
p.263
14 水田転換特別対策事業
昭和46年(1971)~48年にかけて、水田転換特別対策 事業が行われた。
昭和46年より行われた「政府の 水田転換特別対策事業」により、 昭和48年3月、佐木島の水田は 埋立てが完了し、水田は畑地に 変わった。
水田転換特別対策事業
安楽寺 5代住職 有信忍長 宝暦年中 (1751~64) 衰退した安楽寺を
興し、佐木の干拓を成し、 水田を造った。
畑地になった水田の面積
佐木 641 ha
田 815 ha
須ノ上 620 ha
碑文
当地域の低湿地は古くから水田として利用されてきたが土地の生産性を高
めるために畑地に転換し併せて農道、排水路、排水ポンプ施設等を整備して 土地基盤の近代化を計った。このことにより、農家経済の安定をはかる支柱 となり離島農業の光明になったことは県市当局はもとより鷺浦町島民各位 のご理解とご協力のたまものであります。ここに記念碑を建立し完成を祝し ます。
鷺浦町土地改良区
理事長 田中信一
理 事 ( 略 )
鷺浦町土地改良区水田転換特別対策事業記念碑
(須ノ上)