双鷺洲 (Sōroshū) — Section 11-3¶
Verbatim JA transcription of an archival/historical compendium (Edo-period cadastral & census records, temple/shrine & school history). Classical Japanese with transcription artifacts; NOT yet translated; quotes deeper primaries (三原市史, 須波村 survey docs). Native/historian review required.
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しかし、職を求めて他市に移住する者も増え、青年活動は年を追って過疎状態となりましたが地域の実態に合わせ工夫しながら、その伝統は受け継がれてきました。
昭和六〇年、田中県会議員が佐木島開発総合センターを誘致、落成させ、その落成を祝って体協の駅伝、老人クラプのゲートボールを取り入れ老若男女一体となって、町民挙げての盛大な行事として農業文化祭が開催されたのでした。
さらに、三菱研修センターの落成・瀬戸内シルバーセンターの落成と合わせのイベント会場に相応しい環境が整えられ、六一年から三年間三原市教育委員会のコミュニティ学級推進地域の指定を受けることとなり一層充実し、継続して開発センターを中心に駅伝・ゲートボールを位置づけた農業文化祭が開催され、農業の振興はもとより、スポーツ以外に趣味として芸術を愛好する多くの人材を発見する事が出来たのでした。
そして、現在、全国各地より選手の参加するトライアスロン大会が開催されています。
先人の積み重ねた伝統を紐解く時、精浦体協が結成されて五〇年、この小さな島から日本を代表する池田敬子氏、谷中正直氏、山本善則氏をはじめ多くの方々が出現し、また、各地域や職場で郷土の誇りを持って活躍しておられます。
このような現実からも、人口が減少し課題の多い島になって来ている今こそ、今までに培われた素晴しい伝統の灯を決して消してはならないと思うのです。
(平成10年 元鷺浦町内会長 白須俊三)
池田敬子氏(旧姓田中)"競技歴"全日本選手権大会 優10回®ローマ世界選手権大会(昭・29年)「平均台優勝・個人総合八位」。メルボルンオリンピック(昭・31年)個人総合四位・団体六位。モスクワ世界選手権(昭・33年)徒手・平均台三位、個人総合五位、平行五位、国は四位。ローマオリンピック(昭・35年)個人総合六位、平均台・平行権五位、団体位。ブラハ世界選手権大会、(昭・37年)1人総合六位、平均台三位、床六位、団体三位。東京オリンピック大会(昭・39年)個人総合六位、平均台四位、団体三は。ドルトムント世界選手権大
会(昭・41年)、個人総合三位、平行権二位、平均台四位、国体三位。
世界体操選手權大会(平成11年)日本選手团監督。.日本体育大学副学長。.三原市名誉市民。
(ふるさと館)
田中儈一氏
第七回国体(昭和27年)から連続五回出場「走り幅跳び」「00mリレー」。全日本実業団大会(昭・29年)四回連続出場「幅跳び・三段
選び・棒高飛び・リレー」
小谷昌司氏第一回全国青年スポーツ祭に出場(昭和27年)「走り高とび」。第九回国体(昭・29年)から連続5回出場「走り高とび」。
山本善則氏
中田駅伝大会(昭和30年)に出場、第3区で高橋氏(オリンピック選手)のもつ記録を破る。30km短縮マラソンで日本記録立。(略・
3年)別府毎日マラソン、日本四大駅伝にいずれも出場、ほとんど新記録で全部区間覚。読売駅伝に連続四回出場、全部新記録で
区間賞。琵琶®一周駅伝(昭・34年)では、ボストンマラソン優勝者田中秀氏を凌ぎ区間賞。
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昭和27年(1952) 第一回全国青年スポーツ祭が東京国立競技場代々木体育館で開催されることになり、県予選大会を経て広島県代表選手とし
て参加。小谷昌司「走り高跳び」。白須泉「水泳パタフライ」。秋山タズ子(旧姓小谷)「走り高跳び三位」。丸山澄子「砲丸投げ400mリレー」。吉岡宏子(旧姓小谷)「走り高跳び」。西川玲子「100m走」。(各氏)
(ふるさと館)
昭和38年(1963)
全国青年スポーツ祭へ参加。
鷺浦青年バレーボール男子チームは、広島県・中国地区の予選を購ち、中国地区代表。監督、西原久、選手、吉村伸弘、岡本宏三、
白須泉、岡本定、引地義光、登木敏之、西原功、川原敏明、吉村敏之。(各氏)
(ふるさと館)
38 農業・産業の移り変わり
①年表
さぎしまの土質は花崗岩の風化した砂質土壌で、年間の降雨量も少なく農耕はきわめて貧弱な状態なため、昔は、要・きび・あわを作って生活がなされ、綿が栽培されるようになって生活が少しは楽になった。
慶長6年(1601)佐木で揚げ浜式塩田で、塩の生産がされていた。(佐木島古事備忘録)
天和3年(1683)回田ノ浦、本浜、北浜塩田ができた。
天和3年(1683)生口島、高根島、向田村、因島重井村、岩城村などへ「さつまいも」の種子が配られた。
貞享2年(1685)向田佐木の山境の紛争が決着した。
元禄15年(1702)向田野浦村の塩田 6反3畝9歩、沼井数 34、家数64軒(内2軒その内1軒社殿、1軒拝殿、1軒倒蔵、一軒座敷)
正徳元年(1711)大三島の人、下見吉十郎が「くさり難いさつまいも」を薩摩の国から持ち帰り広めた。
享保14年(1729)向田村浜大風のため破損。塩留工事。
宝曆年中安楽寺五代住職信忍長が佐木の干拓をし、水田をつくった。
天明3年(1783)三原地方、天候不順によって凶作となり飢となった。
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享和3年(1803)くどし山山論があった。
文化2年(1805)この頃、佐木に、因島重井から嫁に来た人が密かに「腐り難いさつまいも」を伝えたという伝承がある。
文化6年(1809)新山進入の懸合があった。
文化7年(1810)槇ヶ新開開発のための夕止め工事が始まった。
又化11年(1814)星形にみまわれた。
文政6年(1823)小佐嶋開地。
文政6年(1823)佐木で芋の植え付けがされている。
文政6年(1823)全国で日早(ひでり)が続づき、佐木島で77日間雨が降らなかった。
文政6年(1823)佐木の火山で火を焚いて、「雨乞い」が行われた。
又政9年(1826)安楽寺六代住職宥意忍山が約20年かかって、慎が新田を完成させた。
文政9年(1826)江戸時代、高地を開墾して、梨・桃・柿なども栽培されていた。
文政12年(1829)海藻の争いがあった。
文政年間この頃、向田でも須ノ上でも干拓が次々と行われた。
天保4年(1833)須ノ上に新田が造られた。
天保5年(1834)西原庄蔵によって、海を埋め立て向田原浜塩田20町歩ができた。
嘉永5年(1852)久登志新開が開拓された。
明治2年(1869)凶作により、多くの難渋者が出た。
明治5年(1872)三原の馬宗兵衛が佐木に塩田を拓いた。
明治7年(1874)頃養蚕が行われ、昭和10年(1935)頃まで続いた。
明治10年代この頃から、小佐木の造船業が盛んになったと思われる。
明治14年(1881)頃星魅、害虫にみまわれ三年ほど不作が続き、本佐木の耕地が忠海の千野屋へ流れ、土地が小佐木の人や重井の人に渡った。
明治17年(1884)大暴風雨。(前年、この年と、大天災に遭ってから不景がつづき、村中悲惨な生活が約十年続いた)
明治22年(1889)山下精八郎によって、須ノ上に塩田ができた。
明治22年(1889)島外への出稼ぎが多かった。
明治25年(1892)みかん・ぶどう・とうもろこし・きびなどがつくられていた。
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明治30年(1897)この頃、カミノリ(トロロアオイ)が栽培され、絹鞘エンドウも広まった。
明治34年(1901)佐木の塩田が、小佐木の吉村勘次郎の所有になった。
明治37年(1904)小佐木の吉村藤三郎が佐木に塩田をいた。
明治43年(1910)この頃、除虫菊の栽培を重井の人村上郡兵衛が広めた。
明治43年(1910)この頃より、昭和30年(1955)頃まで、島は裸麦と除虫菊で瀬戸内海を飾った。
大正8年(1919)この頃、須ノ上では船稼ぎの不況などにより、耕地が重井の人に移った。
昭和5年(1930)この頃よりタバコの耕作がはじまった。労働力の関係から中断したが、戦後換金作物として再び盛んに栽培された。
昭和7年(1932)国事業として島内一周道路工事に着工した。
昭和10年(1935)農產物 "
米、裸麦、小麦、腕豆、蚕豆、大豆、甘藷、牛 、桑葉、煙草、除虫菊、瓜、簡草、黄蜀葵。
林產物•水產物 =
筍、塩、海藻。
副業生産=
願、麦桿真田、畳表、藁製品、養豚、養鶏、其他工業品、同木産品。
果物=
日本梨、葡萄、無花果、ネーブル、ナツミカン、桃杷、生柿、桃、蜜柑、其他柑橘。
昭和 18年(1943)御畑興市が戦時中食料増産として甘話の新品種を改良普及した。高系四号(諸国)・農林一号・二号などである。
昭和 19年(1944)須ノ上、三古志農道ができ、島内初めての農道となった。
昭和 21年(1946)御畑興市が「甘藷づくり日本一」になった。
昭和22年(1947)佐木で澱粉の製造がはじまった。(内海殿粉)
昭和23年(1948)御畑興市が、昭和天皇に御前高話をした。
昭和23年(1948)向田農協に事務所を置き、澱粉工場ができた。
昭和24年(1949)広島県から、鷺浦村が「新生農村」の指定を受けた。
昭和25年(1950)この頃、農家の3分の2程が煙草の栽培をして、一大盛況の時代が10年程続いた。
昭和25年(1950)馬鈴薯は、煙草の後作として広く植えられるようになった。
昭和25年(1950)農林省から、「畑作営農改善試験地区」に指定された。
昭和25年(1950)佐木島西廻り(向田佐木)線が県道に認可された。従来、佐木島県道は、東廻り(向田ー須ノ上ー佐木)線だけのため、向田区は和霊石地蔵里道を、佐木区は馬越里道
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を6尺幅に拡幅。また、幸ノ神海岸に石を並べて道路体制を整えた。
昭和25年(1950)頃これまでの役牛にかわって、乳牛が飼育されるようになった。
昭和25年(1950)農家の多くが煙草の栽培をはじめ、一大盛況の時代がはじまった。
昭和25年(1950)ゼラニウムが栽培された。
昭和26年(1951)エロウジョン砂防工事がなされ、ケンタッキ・ラブグラスなどが砂防に植え付けられた。
昭和26年(1951)桟橋の新設。(横島から、うたせ円を買入して三区に浮桟橋を設置)
三区に農協を基点とした地域放送の設備ができた。
この施設は、広島県内でも珍しいほどで、各地域の農協の事務所に施設をもち、農協からの連絡や、農業情報の放送、区をはじめ各種団体からの連絡など多方面に利用された。現在も幅広く活用されている。
昭和26年(1951)農村集団電話を設置した。
昭和26年(1951)酪農組合が結成された。
昭和26年(1951)鷺浦村が、鷺浦ではじめて自動三輪車を購入した。
昭和26年(1951)この頃より、生活のしかたや農業の機械化が始まった。
昭和27年(1952)鷺浦村の農産物
裸麦、小麦、甘語、トロロアオイ、米、除虫菊、煙草、えんどう、そら豆、ささげ、だいず、果徴。
昭和27年(1952)「鷺浦村生産教育」をテーマに掲げ、学校と村が一体となって取り組んだ。
昭和27年(1952)「広島県衛生モデル村」に指定された。(蚊・はえのいない村つくり運動)の推進。
三原保険所と連絡をとり、小中学校生徒の寄生虫の駆除をはじめ、日常的に手洗いの励行をはかると共に、蚊、はえのいない村としての運動を展開した。その啓蒙運動には公民館が中心となった。
昭和27年(1952)国民健康保健制度を設け患者の負担は5割の経費ですむようにした。
昭和27年(1952)向田・佐木に簡易水道が施設された。
昭和27年(1952)鷺漁業組合が設立された。
昭和27年(1952)株小川香料の指導により、香料作物ゼラニウムの栽培が行われた。
この時、導入されたベチバ(ハチジョウガヤ)は表土流失を防ぎ、防風用ともなり、ミカン畑の敷き藁代用として大変便利で、昭和43年頃も盛んに植えられ、他島へも移出された。
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昭和27年(1952)佐木島西廻り(向田/佐木)線県道和霊石地蔵道が改修された。
昭和28年(1953)須ノ上に、村営佃煮工場がつくられた。 (2年で閉鎖)
昭和29年(1954)株小川香料が須ノ上に香料作物ゼラニウムの簡易乾溜工場を建設した。
昭和30年(1955)頃芋・麦・除虫菊の栽培から、主として柑橘栽培に変わった。
昭和31年(1956)鷺漁協を廃し三原漁協と合併した。
昭和31年(1956)向田の塩田が流下式に変わった。
昭和32年(1957)鷺浦の塩田が流下式に変わった。
昭和35年(1960)この頃から「藻抜き」はされなくなった。
昭和35年(1960)この頃、馬鈴薯が盛んに植えられた
昭和36年(1961)学校の農繁期休業や農繁期託児所がなくなった。
昭和37年(1962)広島真珠会社が伊勢岩海岸、長浜海岸で真珠の養殖を始めた。
昭和37年(1962)三原漁協も佐木島周辺でノリ、ワカメの養殖を始めた。
昭和38年(1963)農地改良事業として、共同防除施設・産水施設がつくられ、農業の近代化がなされた。
昭和39年(1964)須ノ上県道が15mから5mに広がった。
昭和41年(1966)ミカン畑を主体とする農業構造改善事業が行われた。
昭和41年度は向田、42年度は須ノ上、佐木に施工。
昭和42年(1967)町内に自動電話が開通した。
昭和44年(1969)農協が合併し鷺浦の農協は三原市農協の支所となった
昭和45年(1970)備後みかん共同撰果場が建設された。
昭和45年(1970)この頃、焦農家登木正和が九州より、晩白柚の哺木を三本取り寄せ、自分の圃場で育て、苗木を配布し、広めた。
昭和45年(1970)構造改善用水地ができた。
昭和46年(1971)畑の潅水施設ができた。
昭和46年(1971)製塩の合理化により鷺浦の塩田がなくなった。
昭和46年(1971)小佐木の農道の警備がはじまった。(49年完成)
昭和47年(1972)須ノ上海岸保全事業がはじまった。(高潮対策、継続事業)
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昭和48年(1973)七瀬農道整備事業がはじまった。(48年→60年完成)
昭和49年(1974)46年から始まった「水田転換特別対策事業」として水田の埋め立てが完了した。
昭和49年(1974)わけぎ・にんじん・かんらん・こぎくかぼちゃなどが広く植えられた。
昭和49年(1974)ビニールハウスで西瓜・胡瓜・トマト・メロンなどが栽培されるようになった。
昭和49年(1974)みかん栽培の第一次減反がなされた。
昭和50年(1975)煙草の耕作者が少なくなった。
昭和60年代(1985~)ハウス野菜の本格的導入がなされ、年中計画的に野菜がつくられるようになった。
昭和60年代(1985~)トマト・メロン・キュウリ・ワケギが栽培されるようになった。
昭和60年代(1985~)みかん栽培の第二次減反がされた。
平成2年(1990)
農家戸数 314戸
①専業農家
89戸
②兼業農家
225戸
③果樹栽培農家
308戸
ビニールハウス栽培により、農閑期はなくなり、須ノ上を中心に年中計画的に野菜がつくられるようになった。
ワケギの栽培戸数44戸。販売量 341トン。
平成19年(2007)住民の高齢化が進み、休耕地・放棄地が段々と多くなり、農産物は、ワケギ、メロン、柑橘類が主なものとなってきた。
平成24年(2012)ワケギの栽培戸数 31戸。栽培面積 12粉。販売量171トン。
平成25年(2013)住民の高齢化が進み、休耕地・放葉地が多くなり、農産物は、ワケギ、メロン、柑橘類が主なものとなった。
平成25年(2013)農事組合法人「キラキラさぎしま」(ワケギ法人)が設立された。
2土砂流亡に悩んだ佐木島
佐木島の人がもっとも悩まされてきたのは、はげ山による土砂流亡であった。花崗岩とその崩壊土から成る砂っぽい地肌は、指でつついただけで
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もさらさらと崩れ落ちる。その砂土は保水力や肥料を保つ力も弱い。砂地の傾斜畑で一番恐ろしいのは、地肌を雨にうたれることであった。雨にた たかれ腰の浮いた畑の土は、雨の流れにさそい出され、大きくえぐりとられていく。その土の大部分が肥えた土である。人々の汗と苦労が雨の降る たびに流されてきた。
瀬戸内海地域の雨量は六、七月と九月の台風の時期に集中している。梅雨期は麦とサツマイモの交代期で、畑は空のことが多く、そのためますま す雨で流れやすくなる。一間近くも浸食されたその亀裂の縁に、石垣を積みあげ土を止めた。一時は畑の土の流亡はすくなくなる。しかし、いつの まにかその溝にも土砂がたまり、水はあふれて畑の土を流していく。人々は雨が降るたびにいっせいに野良に出て俵に砂を入れ、その溝の縁に積み 堤防をつくった。それでも畑は押し流された。とくに島の西側でははなはだしかった。
この土壌浸食を少しでもくいとめ、また、やせた土を肥やすためには、多くの有機質を入れる必要があった。山の草や落ち葉・藁を牛にふませ、そ れを入れると土はよく肥えた。しかし佐木島の山は、塩つくりのための山の木の伐採と耕地の拡張のために山ははげ山となり、刈る草に乏しかった。 そのため、草のかわりに海の藻をとって肥料にした。藻葉は粘土質の土には腐りにくいが、花崗岩質の砂地にはよく分解した。これは肥料としてだ けではなく、土砂の流亡を防ぐ役目もした。そのため傾斜地では、畝は等高線に沿って島中を走る。横畝だと畑の外に土砂が流されるのを少しでも 防げた。それでもなかなか土砂流亡は止らなかった。
戦後になって、やっと本格的に対策がたてられ、山への植林が行われていった。昭和二十五年(1950) 農林省から畑作営農改善試験地区に指定され 予算もついた。また、当時の宮下村長の尽力があった。宮下村長は島を歩き農家の人々を説きまわり、また一方では中央への補助交付の運動を続け てきた。
(三原市史)
土壌浸食流失の取り組みは、まず、牧草の植え付けであった。佐木火山にケンタッキー・ラブグラスなどの牧草を帯状に植えて土の流失を防ぐ試み がなされた。牧草は、土砂の流失を防ぐだけではなく、刈り取られた牧草は、いい肥料になった。また、雨期に地面を裸にしない取り組みもされた。 豆科作物が植えられ、五月上旬麦の畝間に青刈り大豆・ささげを間作に、後作にトウモロコシが植えられた。
次に取り組まれたのが、はげ山に松とハゲシバリを植えることであった。ハゲシバリは成長するにしたがい根を張り、予想以上に地下水が豊にな ることが分かった。
昭和30年頃からは、ミカンの植え付けが奨励され、比較的高い斜面にもミカンが植えられ、土砂の流失を防ぐとともにみかんの収穫により現金 収入を得るという一石二鳥の対策となった。ミカン栽培は島全体を緑にするとともに農業に大きな変化をもたらした。
佐木火山山頂には、「エロウジョン防止発祥の地」としての記念碑が建てられた。