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双鷺洲 (Sōroshū) — Section 11-4

Verbatim JA transcription of an archival/historical compendium (Edo-period cadastral & census records, temple/shrine & school history). Classical Japanese with transcription artifacts; NOT yet translated; quotes deeper primaries (三原市史, 須波村 survey docs). Native/historian review required.

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3猫の手も借りたかった農繁期

さぎしまの農業は、その大部分が畑で、しかも平地が少なく傾斜の多い山地で、その労働は大変なものであった。その上、農作物が、麦、さつまいも、除虫菊、かみのりなどが主要なものであったため、その植え付けや収穫の時期が重なり、農繁期という農家にとって大変忙しい時期があった。

春の農繁期は、除虫菊の収穫や植え付け、麦の収穫、さつまいもの植え付け、田植えなどがあり、特に、除虫の収穫では、天候を気にしながらの作業であった。

秋の農繁期は、さつまいもの収穫、稲の取り入れ、などがあり、作業が春夏ともに一度に押し寄せてくるため多忙を極めた。

また、夏の時期も、昼夜の作業を問わない煙草の取り入れをはじめ、田んぼの管理、藻抜き、ささげ・あずき・かみのりの取り入れなど、どの作業も暑さのなかで気の休まるときのない毎日であった。

農繁期は、朝は朝星、夜は夜星をいただいてという言葉が物語る様に、朝早くから夜遅くまで働き、食事を取る時間も惜しんで、食事が終わるとすぐ作業に取り掛かからなければならない状態であった。

農繁期は、親の忙しさだけではなく、子どもの生活も大変で、学校に小さい子どもを連れていき子守をしながら勉強をする子どもや、家に帰ると、みんなすぐ畑に行き、子守や畑の手伝いをしていた。農繁期中、祖父母のいない家庭では、乳飲み子や小さい子どもは学校に連れて行ってもらえず、親とともに畑に連れて行かれ、エンボウの中に入れられて、学校から帰る兄や姉を待った。兄や姉のいない子はエンボウの中で一日を過ごしていたといわれている。農繁期は、一家総出の労働であった。

農繁期中に行われた学校の農繁期休業や農繁期託児所は、親にとつても子どもたちにとっても大変助かっていた。

農繁期は、朝早くから夜遅くまで働く重労働であったため、食事は一日4回、朝茶、昼飯、番茶、夕飯と摂っていた。

主に麦とサツマイモを食べていた。向田野浦の森前与作さん(明治24年・1891生まれ)の話によると、畑が近くにあればチャノマといって朝飯前に一仕事し、アサジャは芋を炊くかお粥に漬け物くらい、学校が近いので昼は食べに帰る。チュウショクに麦飯を炊いて食べるが、芋や麦ではすぐ腹が減るので、残り飯をオバンチャに食べ、寒いときはユウハンにもう一度ぬくい飯を炊予実もあった。新は島には木が少なかったので高根島や三原の須波から買い、多く使う家は丸木で、閑のない家は割木を買う。麦は裸麦で、小麦はほとんど売るか問屋でうどんや素麺と交換してもらい、自分で粉にすることは少なかった。主に団子麦を粉にして、団子や柏餅を作る。芋を主に食べたが、生芋のままやイモコにして売りもした。 (三原市史)

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島外から佐木島へ嫁いできたあるおばあさんの話によると、嫁いでくる前はころころ太っていたが、この島にきて一年で骨と皮になってしまったという。それほど佐木島の農作業はきついものであった。傾斜畑であるため、肥料、水、収穫した芋、麦、除虫菊、スイカなどの運搬は、男も女もなく、収穫時には長い道をサスで担いたエンボウで運んだ。サスとエンボウは佐木島のどの農家にもあつた。エンボウは大きい家では七十〜百五十荷、ふつう四十荷は用意しておいた。それは稲麗で作った。麦や除虫菊を干す莚、また肥料を作るためや作物を日焼けから守るのにも稲電を使った。

④農繁期託児所

農繁期には、学校に入ってない小さな弟や妹を教室に連れてくる子もいたくらい多忙であった。

学校では農繁休業といって学校を休みにしたり、授業を午前中で切り上げたりして、子どもたちを家庭にかえし、子どもたちが各家庭で農業の手伝いをすることができる様にした。

農繁期間中、小学校では、学校に入るまでの小さい子どもをあずかり、託児所を開いていた。

学校の教員や校長先生や先生方の奥さんが中心となり、村長さん区長さんなど地域をあげて、子どもたちをあずかり、親は安心して農業に従事できる態勢をつくっていた。

学校では、集団生活を経験したことのない小さな子どもたちをあずかることは大変なことであったが、学校・家庭・地域が一体となって農繁期に対処していた。

農繁期託児所は、春・秋一週間位ずつ行われたが、昭和36年、学校の農繁休業や農繁期託児所はなくなった。

5農閑期の出稼ぎ

明治の頃か何時の頃か、わからないが、農閑期の出稼ぎについて次ぎのように記されている。

佐木島は、畑の島で米の生産が乏しかったので、秋の稲刈り時期になると、豊田郡山間の村々へ稲刈りの手伝いにいった。一日働き食べさせてもらって、米一升であったという。この働きを秋仕とも荒仕子ともいった。三、四人で組んで知るべをたよって出かけて行き、納屋などに寝所をしつらえてもらって、そこで寝泊まりし、稲刈りにはげむ。そして正月前に帰ってくる。だいたい三十日は働いたので米三斗くらいは島へ持って帰ったという。

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6佐木島の耕地が流出した

本佐木で耕地が最もたくさん外に流れたのは、明治十四-十六年(1881~1883)のことであるという。そのころ早魃、台風などに襲われて不作が三年続き、綿がとれないので肥料代が払えず、中以下の農家はほとんどといってよいほど、肥料屋に土地をとられた。昔は不作の年には農民は生活に困ったもので、ムラで救助米をツナイで分配したことがあったという。子供が多かったりすると、育てかねて奉公に出すことが多かった。大きい家では奉公人を三人くらい置いていたといわれている。佐木で大きい家というのは四町くらいの耕地を所有している家で、半分くらいは小作に出していた。ちなみに専業でやっていけるのは一町二、三反以上であるが、七、八反くらいの規模の家が多かった。奉公人の給金は明治の末ごろで、一年に女六円、男十五円といえば最高であった。(中略)

須ノ上では、大正七年、第一次大戦の終結により軍需景気が終り、株の大展落や企業の倒産が続発した。そのため、須ノ上では船稼ぎが不況となり、その上、不作が重なり重井の人に耕地が流れたと云われている。

不作が続いて肥料屋に耕地をとられた本佐木では、小作が増えた。小作料は畑の場合、麦で反一石というのが普通であった。麦二石の反収で一石の小作料であるから一石残ることになるが、それはホシカ代として消えてしまい、小作は夏作のサツマイモだけが手もとに残るといわれたものである。サツマイモはに三荷(一荷は十五貫くらい)の収穫が普通であった。明治三十五年(1902)ごろから綿にかわってサツマイモがたくさん作られるようになり、麦とサツマイモが中心になる。綿は栽培に手がかかるうえに肥料代がかさむので、小作では作りえないということがあつた。

7茣蓙織り

明治末ごろから大正にかけて、本佐木には、茣蓙社というのができて、女がここで働くようになった。茣蓙社というのは三尺幅で二十間の長さの 茣蓙を藺草(イグサ)で織る工場で、日清戦争後に初めてでき、多いときには八軒がやっていた。一軒で十台から十二台の織機をすえていた。一台に オリコとサシコが二人ついて、四日で一本(三尺×二十間)あげていた。一本あげて賃が一円八十銭から、良いときで二円であった。これを二人で分 けるのだが、現金収入の道の少ない時代のことなので、たいへん助かった。四月と秋の農繁期に休むだけで、年中やっていた。

佐木島では、十二歳から二十歳くらいまでの娘たちは、三原の町をはじめ遠くは関西方面まで奉公に出すことが多かったが、茣蓙社ができ、ほと んどがここで働くようになった。しかも奉公に出るより三、四倍の賃を稼ぐことができたため、奉公はたちまちこの茣蓙社の労働にとってかわった。 男でも行く人がいた。向田には茣蓙社はなく、本佐木へ四、五人働きに行くくらいであった。向田には塩田があり、そこで働く人が多かったからで

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ある。外に流れた土地は、茣蓙社での稼ぎとサツマイモの収入で、六、七割は買いもどすことができたといわれている。(三原市史)

8換金作物

綿は平地の良い畑にしかできないが、サツマイモは傾斜のきつい所でも作れるから、作のこまい(小さい)ものでも作れたし、不作ということがあ まりないから、安定していた。サツマイモは岡山や観音寺のほうに多く出していた。丸亀や岡山から船で商人が買いに来ていた。佐木のサツマイモ は坂出・重井辺りのイモよりも味がよい、といって評判がよかった。

そのあと、明治末頃から、除虫菊とカミノリ(黄蜀葵=トロロアオイ)の栽培が盛んになった。カミノリは早くから少しずつ作っていたが、除虫菊が 入ってきてからは除虫菊の畝間に植えるということで多くなった。重井から入ってきたものである。 除虫菊は傾斜地に多く作られたもので、重井と 並んで有名であった。第二次大戦中の食糧増産で栽培が激減し、戦後少し復活して昭和三十七年(1962)ごろまではかなり栽培されていたが、しだ いにミカン畑に切り換えられ、現在では傾斜畑の大半にミカンが植えられた。

因島の重井に面した須ノ上地区は、昔から重井との往来が盛んであつた。重井には商人が多く、産物を売ったり、日用品を重井から入れたりとい う関係があつた。そういうことも理由の一つになっているというが、須ノ上を中心に東海岸の畑地を、重井の人がだいぶ持っていた。困った折に売っ たものであるという。現在は殆ど見られなくなったが、以前は、農船で重井から通い耕作に来る人がかなりいた。

(三原市史)

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9藻抜き

「耕して天に至る」と云われてきた如く、瀬戸内海の島々は、耕地が少なく山の斜面まで開されてきた。その上、塩田のある品では、塩を焼くために山の木々か切られ、一層はげ山になったと言われている。さぎしまも違わず頂上近くまで耕地として活用された島である。しかし、地肌は花崗岩とその崩壊土で、雨が降れば山肌は土砂の流失が著しい状態であった。当時の栽培作物は、麦・さつまいも・除虫・かみのりといったもので山肌の土砂の流失は大きな問題であった。施肥に合わせて、土砂の流失を少なくしていくことは大きな課題であった。そのため、稲わら・麦わら・除虫菊のくき、さつまいものくき、さらに、山に生えている草を刈り取り牛に踏ませて糞尿を混ぜ、それを腐らせて肥料にしたり、さらに、海の藻を採って利用してきた。人々は「もぬき」といって、夏の暑い盛りに、海に小舟を出し、海の中に背丈の三倍もある長さの藻バシ(二本の竹)を海中に突っ込みをはさみ、それをねじりながら藻を引き抜き採っていた。

島の周りだけの藻では足りず、東は松永湾まで、西は忠海の沖合いまで藻を採りに出かけたといわれている。そこでは、藻を採る許可がいり、行く先々で許可をもらい採藻料を払っていた。忠海方面に行く時は、舟に食料・新などを積み込んで出かけ10日間位泊まり込んで採った時期もあったと云われている。そして、採った藻はそこの浜に干し、乾燥させてから持ち帰っていたと言われている。一組が20〜50舟の船団で出かけていたとも言われている。さぎしま周辺で採った藻の乾燥は、海岸をはじめ学校の運動場・道路など人の歩けるだけの道巾を残して全面に干されていた。昭和35年頃から、栽培作物や農業経営の仕方が変わり、また化学肥料の普及等により「藻抜き」はされなくなった。

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10グロ

はげ山の畑で一番恐ろしいのは、地肌を雨にうたれる

雨による土砂流亡を防ぎ、作物をつくるためには、農 作物の茎、海草の藻が大変有効で、これらは、保水力があ 肥料になった。

そのため、稲藁、麦藁、豆類の茎、除虫菊の茎、薩摩芋の 蔓、海草の藻、さらに牛の糞(だや)を集め、積み重ねて 蓄え、必要に応じて畑に施した。

この、積み重ねて蓄えたものが「グロ」と云われてい る。

田んぼの少ないさぎしまでは、三原まで稲藁を買いに 行き、高さ7尺のグロ1本が一反分であったと云われ、畑 78反耕作の農家では、2・3反分の稲藁を買っていたと 云われている。

向田小学校西側土手の「グロ場」に並ぶわらグロ

高く積み上げられるグロは、真ん中に支柱をたて、安定をはかると共に 積み上げたグロの頂上から雨水が入らないように支柱を中心に山形にわ らを並べ、その上から縄を下ろし先におもりをつけ、風雨に耐えられるよ うに作られていた。

11さつまいもの伝播

盆が来たとて栗に麦まぜて

それにささげを ちょぼちょぼと。

当時の生活を物語るこの歌詞は、さつまいも伝播以前の米麦を栽培しても常食できなかった時代を物語っている。

凶作や飢の時にはいつも多くの死者を出していたこの時代、さつまいもの伝播は人々にとって大変な喜びであった。

日照りに強く天候に左右されにくく、荒地にも十分適応した畑地の作物で「栽培しやすい作物」として大変喜こばれた。

さつまいもは、たちまち人々の常食となり、田んぼの少ない瀬戸内地域では、瞬く間に瀬戸内一帯に広がった。

ア、さつまいもが栽培されるようになって

文政2年(1819)の佐伯郡のある村の差出帳には次のように基かれている。

「六・七十年前は芋なし、そのころは食物乏しく、窮民多し。その後、芋を植える事をもっぱらとし、当時飯用の本たるはこれなり。」

「畑作は麦ならびに琉球芋(さつまいも)を作り候事多し、当時は窮民多しといえども餓死するものなきは、芋を多分に作り立て、飯用に致し候

為かと存じ仕候う。」

イ、佐木島へのさつまいもの伝播

佐木島は、備後国と安芸国に分かれていたため、さつまいもの伝播もその時期やルートも違っていたと思われる。

天和3年(1683)、安芸国である向田には、「生口島、高根島村、向田村、因島重井、岩城島などへさつまいもの種子が配られた」とあり、吉十郎や平左衛門がさつまいもを伝える以前に向田にはさつまいもが伝わっていた。おそらく、村上休広が伝えたさつまいも(リュウキュウイモ)であったと

この時、備後国である佐木へのさつまいもの伝播についての記録は見当たらないが、天和3年には、おそらく伝わってきていないと思われる。

正徳元年(1711)、下見吉十郎が瀬戸村に持ち帰った「腐りにくいさつまいも」も、いつ頃、向田に伝わったのかは、はっきりしていないが、正徳元年、吉十郎が持ち帰ったさつまいもは、正徳3年頃には、瀬戸内一帯の島々で栽培されるようになったと云われているから、向田野浦村にもこの頃伝わったものと思われる。

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佐木への伝播は、「文化2年(1805)、因島重井村より嫁にきた人が腐りにくいさつまいもを伝えた」と云う言い伝えがあり、また、文政6年(1823)、佐木で芋の植え付けがされたという記録はあるものの決定的な時期は分からない。しかし、文化2年と云う言い伝えは適当に流布するものではなく、何らかの根拠があったと思われ、佐木へのさつまいもの伝播は文化2年頃と言っても差し支えないのではないか。

佐木へのさつまいもの伝播は、向田野浦村に伝わった時期と異なるとするならば、下見吉十郎の伝えたさつまいもであるとは限らなく、大森銀山代官として備後も支配していた井戸平左衛門によって広められたさつまいもが重井から伝わったとも考えられる。

ウ、さつまいもを広めた人々

村上休広

寛文(1661)の頃、安芸竹原の村上休広は、木造の地蔵尊を背負い諸国遍歴の途上、薩摩から琉球へ渡って甘話5個を得て、これを持ち帰り竹原の付近一帯に広めたと云われている。天和3年(1683)に向田に配られたというさつまいもの種子は、村上休広によるものと云われている。

村上休広は、竹原長生寺に「いも地蔵」として祀られている。

前田利右衛門

宝永2年(1705)、さつまいもを初めて薩摩(鹿児島)へ伝えたのは、鹿児島指宿の前田利右衛門という貿易をしていた人であった。

利右衛門は、琉球(沖縄)で「畑に栽培されている作物が唐(中国)から伝わったもので、根につく大きないもが、大風が吹いても収穫できる作物であることを聞かされ、何としてもこれを持ち帰りたいと思い3個の鉢に種芋を植えて大事に持ち帰ったと言われている。

この利右衛門の持ち帰った3個の種芋がもとで薩摩(鹿児島)一帯に栽培される様になったと言われている。

村人は、利右衛門の死後、徳光神社(鹿児島県指宿)に甘頑徳碑を建てその徳を称えている。

下見吉十郎

伊予国大三島に生まれた下見吉十郎は、38歳のとき、大きな願いを抱いて全国行脚の六部の旅に出た。

旅を続けて、鹿児島県の伊集院村の農家、土兵衛の家に宿をとったとき、そこで、食膳に出され、初めて口にしたものは、今まで食していたリュウ

をしていた人であった。

利右衛門は、琉球(沖縄)で「畑に栽培されている作物が唐(中国)から伝わったもので、根につく大きないもが、大風が吹いても収穫できる作物で あることを聞かされ、何としてもこれを持ち帰りたいと思い3個の鉢に種芋を植えて大事に持ち帰ったと言われている。

この利右衛門の持ち帰った3個の種芋がもとで薩摩(鹿児島)一帯に栽培される様になったと言われている。 村人は、利右衛門の死後、徳光神社(鹿児島県指宿)に甘藷翁碩徳碑を建てその徳を称えている。

伊予国大三島に生まれた下見吉十郎は、38歳のとき、大きな願いを抱いて全国行脚の六部の旅に出た。

旅を続けて、鹿児島県の伊集院村の農家、土兵衛の家に宿をとったとき、そこで、食膳に出され、初めて口にしたものは、今まで食していたリュウ