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双鷺洲 (Sōroshū) — Section 10-2

Verbatim JA transcription of an archival/historical compendium (Edo-period cadastral & census records, temple/shrine & school history). Classical Japanese with transcription artifacts; NOT yet translated; quotes deeper primaries (三原市史, 須波村 survey docs). Native/historian review required.

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1鷺浦中学校の沿革

昭和 22年(1947)

豊田郡鷺浦村立鷺浦中学校創立

鷺小学校 南校舎・青年会館を仮校舎として発足。

初代校長 白須憲造氏

生徒数 28名 (一年92名 二年75名 三年51名)

昭和23年(1948)

鷺浦中学校新校舎落成

(校舎一棟・宿直室一棟)

昭和30年(1955)

給食が始まった。

全日本中学校通信水泳大会で優勝した

昭和31年(1956)

鷺浦村が三原市に合併、鷺浦村立鷺浦中学校は、

三原市立鷺浦中学校と改称した。

昭和32年(1957)

校旗・校歌が制定された。(創立10周年記念)

広島県総合体育大会水泳競技の部で女子総合優勝。

昭和35年(1960)校庭築地拡張工事が行われた。

昭和36年(1961)

家庭科調理室設備工事が完了した。

町内特別寄付により技術・家庭科実習設備が軽備された。

昭和40年(1965)

コンクリート渡り廊下修理、理科室水道、ガス管工事、及び東校舎電気工事が完了した。

昭和41年(1966)

鷺浦PTA連絡協議会が結成された。

昭和42年(1967)

鷺浦中学校同窓会結成大会が行われた。

中学校創立二〇周年記念式典が行われた。

昭和43年(1968)

給食室改良工事が行われた。

昭和44年(1969)

保健室を宿直室に変更した。

昭和46年(1971)

講堂兼体育館が落成。

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昭和49年(1974)

文化祭を百日祭と称した

昭和50年(1975)

広島県中学校体育連盟総合体育大会陸上競技の部、2,000mで第一位となった。

昭和52年(1977)

ブールが開設した。

バレーボール市内大会で春夏連続優騰した。

中学校創立三〇周年記念式典県畜記念演奏会開催。

昭和54年(1979)

鷺浦中学校鉄筋三階建校舎落成する。

掲揚台が完成した。

校舎(鉄筋三階建て)改築竣工式を行った。

木移植学校園第一期作業(庭園づくり)をPTAで実施した。

昭和57年(1982)

特別活動室、更衣室、体育器具室の校舎改築工事完成、旧倉庫取り壊し完了した。

昭和58年(1983)

校庭の排水用側溝工事が完了した。

グランドビアノが納入された。

昭和59年(1984)

体育館屋根が全面改修された。

昭和60年(1985)

焼却炉が完成した。

昭和61年(1986)

町P連郊外補導部を母体にして青少年育成鷺浦町民会議を結成した。市内駅伝大会、ロードレース大会を本校会場で開かれた。

平成元年(1989)

新調理場ができた。

平成2年(1990)

西城中との交流キャンプが行われた。

平成3年(1991)

市P連研究大会本校にて開催された。

平成4年(1992)

学校週五日制文部省指定校となった。

平成5年(1993)

「橋のない川」上映学習会が開かれた。

パソコンが設置された。

櫛木移植学校第二期作業をPTAで実施した。

体育館が全面改修された。

平成6年(1994)

体育館舞台幕が取り替えられた。

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焼却炉が取り付けられた。

平成7年(1995)

パソコン教室に冷房機器が設置された。

第一回鷺浦幼・小・中合同運動会が行われた。

平成9年(1997)

創立五〇周年記念式典挙行。

平成10年(1998)

体育館吊り上げ装置新設。

平成11年(1999)

屋外用大時計設置。

平成12年(2000)

優勝旗新調披露。

パソコン設置・校内ラン経備(イントラネット警備事業)。

第47回市P連研究大会開催。

平成14年(2002)

三原市特認校制度により、校区外から3名の生徒が転入学。

シンガポール中学校来校(国際親善交流)

平成15年(2003)

体育館入口車椅子用スロープ設置。

平成16年(2004)

シンガポール中学校来校。(国際親善交流)

三原市第1回スピーチコンテスト(最優秀・教育長賞受賞)。

平成17年(2005)

特認校制度により、1名入学。

学校評議員会開催。

三原市第2回スピーチコンテスト(最優秀賞・教育長賞・優秀賞受賞)。

鷺浦小学校・鷺浦中学校公開研究会(三原市教育創造ブラン事業)。

平成18年(2006)

特認校制度により、2名入学。

三原市第3回スピーチコンテスト(最優秀賞・教育長賞受賞)。

税についての作文表償(三原税務署長償・中国納税貯蓄組合連合会佳作、三原地区納税貯蓄組合連合会会長賞、

三原法人会長償、学校表彰受賞)。

広島県統計グラフコンクール(パソコンの部)表彰(広島県知事賞、佳作)。

平成19年(2007)

三原第二中学校統合交流事業開始。

鷺浦中学校閉校地元委員会設置。

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閉校記念運動会開催。

閉校記念文化的学習発表会開催。

三原市第4回スピーチコンテスト(優秀賞2名)

税についての作文表償(三原税務署長償、広島県知事賞、中国納税貯蓄組合連合会特賞、学校表彰受賞)。

平成20年(2008)

平成19年度第61回卒業証書授与式。(卒業生総数 2609名)

鷺浦中学校閉校式典、記念碑除幕式。

2草創から充実へ

鷺浦中学校閉校式典、記念碑除幕式。 初代校長 白須憲造

光陰は全く矢の如く、早くも創立三十周年記念日を迎えるに至ったことは誠に感無量で慶賀に耐えない次第である。私は、その約半分の十四年 間初代校長として引続き勤務させてもらったのであるが、当初島内三地区の長老先覚者の方々から御高見を承りこれを重要な参考資料と、あく まで公正な教育を念じ将来を担う大切な子供達の健全な育成をひたすら願い、権力におもねらず三地区の特性を融合大成し祖国再建の有能な人 材を輩出させる悲願に終始した積りである。その顕現には、智徳体の三育を兼備した人間形成が絶対に必要であると確信し、このことを不動の信 念として発足したのである。

わが国空前の敗戦で連合軍の軍政下に学制改革が断行され、昭和二十二年、鷺浦中学校の発足をみるに至ったが、壊滅的打撃を受けて間もない ことで、新校舎建設は正に暴挙であつた。しかし、祖国復興の要諦は、有能な人間を育成することにありと考え同年四月仮校舎における開校式の際、あえて独自の新校舎建設の重要性を強調懇望したところ、幸にも剛気で敏腕な宮下清村長の英断により早急に実現させる公約を得、挙村総力 を結集し血の出る思いで浄財は拠出され、この難事業は紆余曲折を経て完遂されたのであった。

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この偉業が報ぜられるや、たちまち他の市町村に大きな反響を呼び、豊田郡下三十七校の中学校長会が中で開催されることに一決、校長各位の羨望の的となり各校新築の気運を促進させたのである。第一回卒業生にははなはだ申し訳ない事であつたが、第二回生以降はこの宏大な恩恵に浴し、毎日楽しい希望に満ちた学校生活を営み得たことは感に堪えぬ所であった。全島民の心血を注いで下さった此等の苦労に報いることは、尊い人の道であって、この精神を洒養するために、校歌の中に産土の祖先の里に負う使命の重いことを述べ、郷土は元より国家社会に貢献できる人間になってほしいと願っているのである。

鷺中の校歌は、私自身で創作し、その骨組みを変えないよう重園氏に修正を依頼したのである。重園氏は部下中学校長の同僚で友人関係にあった。また、同氏は数々の力作で県下に名だたる作詞家であつた。こわれて私の家に二泊程され、島内をつぶさに観察され、雄大な太平山、総浦中健児の勇往悪進する例建な気魂と粘り強い根性ならびにその使命を返歌した私の作った歌詞の内容を充分検討修正され数日後でき上がったものである。校歌の作曲では、当時の金井正範教頭先生の一方ならぬ初力により、NHKを経てわが国屈指の作曲家古関裕而氏に懇請することになり快諾を受ける幸運に恵まれたのである。最初、私は、重園古関両氏はそれぞれ遠隔の地にあり互いに見知らぬ間柄であろうと思い込んでいたところ、奇しくも私から古関氏に郵送した作詞同封の依頼状により、御両人は往年共に満鉄に勤務していた旧知の関係にあったことが判明し、相互の友情を温めるチャンスになったことは”然とはいえ不思議な巡り合わせであつた。初蔭で、作曲に当り壮重過ぎぬ明るいものをとの私の要望も答れられ、近県まれに見る名曲が生れたものと思い、正に天佑にも似て幸運であったと歓喜した次第である。しかも、これを機縁に、予想外の奉仕的格安で引受けていただいて表心より感期に創えなかった。

校旗も校歌と同時に創立十周年記念としてPTAから巨額の出費により完成したが、校章は月桂の三葉を以て智徳体を表現し同時に佐木・向田・須ノ上の三区をも表わして、これ等を一丸として一体化しこの三育の調和と兼備を示したものである。もちろん、この三枚の葉はそれぞれ古代ギリシャの優務者がかぶった月桂の栄冠にちなんだものである。三菜の間に少し飛び出たものは、ペン先で学校を意味し他校との類似を区別するために円内に鶏浦のSと中学校の中を配したのである。この校章も、私が驚中の理想現を念じて立案諸先生方の貧同を得て作成したものである。ともかくも、この校校歌はかぎりなく発展向上するであろう驚浦中学校の永遠のシンボルである。施設・設備の充実に追われこれ等の制定を見ずして巣立った卒業生諸君には誠に申訳なく思っているが、鷺中魂の真髄は創立当初より不動不変のもので、その結晶が校旗校歌であると理解して欲しいのである。

次に、感想めいた追憶になるが、昔からいわゆる本土の人は島といえば何かにつけ下げすんで見る潜在意識があることは歪めない事実である。

島民自身も、また宿命的というか自分を幾分卑下する習性がある。私はこの不平等な心をまず払拭する必要を痛感していたのである。私も、時折本土の人がわれわれを下げすむ気配を見せると君は大陸にでも住んでいる積もりか?日本は島国ではないか。もっと大きく目を開きなさい…とよく言ったものだ。しかし、何といっても、彼等の潜在意識は容易に拭いきれるものではないので、何とかしてこれを解消させ私達島民も卑下心を消滅させねばならぬと決意したのである。心の根底に自らを卑下する気持ちが潜んでいるくらい恐ろしいことはない。島に移住すれば島流しに遇

ったような気持ちになることは何という寂しいことであろう。

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子供の教育にも影響する所甚大である。そのような時、前述のように、他の市町村に先がけ驚中新校害の見事な完成を見羨望の的になったことは従来の空気を改善するのに誠に有益であつたと思うのである。

幸か不幸か、創立当時は船便は三原まで一日一、二往復位であった事情もあるが、地元出身以外の先生方には各地区に分散常駐してもらい、各小学校の協力を得て名区内の交流と生徒達の監督指導に当たっていただき、これに地元出身の諸先生の献身的協力とが相まって、こぞって真に驚浦人になりさり、暖をすえて総中教育方針の推進に忍耐強く尽力して下さったことは、実に感銘深いものを覚えたのである。当時を懐ぶよすがとして、再度見られぬ事象ではなかろうかと懐旧の急切々たるものがある。御蔭で校内では打ちとけた教職員が親和一体となって家族的に協力しつつ懇切な生徒達の諸活動の指導に当り、校外では父兄と連携を築にし、よろしく当る等全幅の借頼を得、生徒達も心から先生を敬愛していたようである。浦中学校を日本一の優秀校にして見せると息巻く西原弘二・松井賢臣両先生を始め、地元出身の先生、これに拍車をかける他の先生方、これを庇護激励する全島民等一丸となって実に涙ぐましい精進振りであった。

このような雰囲気は、古来負けずぎらいの驚浦人の伝統的根性をいやが上にも奮起させ、名方面の絶大な声援のもと、諸先生の夜を目についでの実に適切巧妙な御指導があったればこそ将来を荷負う卓越した人材の因子を生みだす素因となったように思うのである。国内はもとより世界的にスポーツ界に貧就したもの、東大・京大・広大その他名門校に学び実業界に入り世界的に活躍する者、主婦となり家を起こし、子供の養育や、地元諸機関と協力しつつ家業に精進する者、早くから郷土を守り地域開発の中堅となって頑張る者等名種名様であるが何れも驚中魂に徹し今後を大いに『望されているのである。かって、大工修業中の須ノ上の卒業生が、学校の夏休みを利用して母校の生徒机の修理に奉仕したいと申し出、全部完全に修復してくれた事例は正に鶏中魂の権化とも言うべく、その楽高な母校愛はただただ感数の至りであった。村当局の学校に対する深慮は再度記する要はないが、陰に陽に庇護激励して下さったPTAの勧支援を得たればこそ発展することができたことは今さら申すまでもないことである。村当局とPTAは正に車の両輪のようなものであった。特に初代PTA会長山下忠弘氏は、陣頭に立って会員諸氏を啓蒙され、諸設備の充実に狂奈され貧弱だった設備が村費と共に見違える程備されたので教育活動も非常に悪まれた環境に置かれ、生徒達は多大の恩悪に浴したのである。新校害ができて間もなく、本郷農業高校鷺浦分校の創設で新校舎共用のやむなきに至り、不便を忍んで分校の盛り立てに協力、地元青少年の向学心に貧献したものである。中学校の新築成るや、矢継ぎばやに高校分校の建設に取り組む事は、鷺浦村民の教育熱のいかに旺盛であるかを示すもので、他の追随を許さぬ壮挙であったのである。山下PTA会長の後任として、宮下村長自らPTA会長を兼任され、三原市と合併するまで七年間尽力され、学識経験者や学者等を招いて研究集会も度々開き、島内小・中・高一貫教育の推進、県下初の中学校給食の実施、村教育委員会制度の発足に伴う村教育体制の確立、等々めまぐるしい推移と著しい進展を見たのである。

以上のように、中高の新築を始め、スポーツでは抜群の成果をあげ、英才も続出、新生農村の指定を受けて注目を浴び、市民大会に出場すれば連続優勝するといったようなことが重なると、いわゆる本土人も、鶯浦人を見直すようになり、われわれ自身も、卑下する心が満え失せ、むしろ優越感を覚えるようになったのである。

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音楽やスポーツにしろ、どのような些細な事でも自身を持って進むことは、次々と前進を誘発しそれぞれの効果をますます増幅させるが、卑下する心は進歩を阻む最悪の障壁となり、前述の希望を失わせるのみである。例えば、市と合併前後のスポーツ等の全盛期も、一朝一夕に生じたものではもちろんない。生徒個々の特徴の精密な調査から仕上げまでで、実に涙ぐましい努力と連日の活訓練による自信の累積によって生れたものであったと思う。実に栄冠涙ありであったのである。このスポーツによって獲得した大きな自には、単にスポーツにとどまらず他の自信に挑戦させますます発展させるのである。このように、どんな小さなことでも自言を持たせこれを強化しさらに拡大させることに努めたのである。

大さく例をとれば、つい最近まで、日本人は欧米人を崇拝し、来品は何でも優秀であるとあこがれ国産品を粗末に扱いがちだった。しかし、戦争は無くなり平和になったわが国は、朝鮮戦争を契機に、経済的に成長し始め、以来、生産工程は改良に改良を重ね国産品の多くは来品を凌駕し、世界名国でその品質を高く評価されるようになった。これは、逆境にあえぎながら、不断の創意と鋭い研による製作技術の開発と、たくましい商波の筋であろうが、要約すれば卑下の克服と新しい自信の現れたことを如実に立証したものと考えられるのである。資源の乏しいことを憂慮するのは日本人のほとんどであるが、ある米国の学者は之を否認し、日本人は明晰な頭脳を無尽蔵に秘蔵しているのではないか。このような大資源は世界中どこにもないのだ。と嘆させるに至っているのである。今や、国際感覚は逆転しつつあるいわゆる本土人が総浦人を見直したように。

なお忘れてならないことは島内名小学校長名位を始め諸先生の心温まる支援協力があったればこそ、中学校の存立成長はスムースに運んだのだということである。ことに、驚小学校では、一部校害を提供され、不便を忍んで案先中学校創設に種々と便宜を計ってくださったことは誠に有難いことであった。おりしも、地元出身で人格広悪な西原宗三氏が総小学校長で、郷土愛に燃える同校長からは精進している島内の状態につき種々と有益な助言にあずかり、不案内の私のためひいては中学校育成推進のために少なからず貢献されたことは城に幸運で忘れ得め処である。私は着任するとすぐ残存する青年学校長も一ヶ年兼任し、仮校舎の青年会館の東側に飛び出た小さな和室を員室とし、大広間を小さく仕切って中学校と青年学校が共存雑居する状況で複雑多忙な毎日であったのである。

次に話は変わるが、「所得倍増計画」を提唱された池田勇人氏が、昭和二十八年九月ころだったと思うが大臣に就任され落参かたがた省され、耕三寺を経て織浦に来られた際、中学校にも立ち寄られ種々と御高説を賜ったことがあった。その際、私は大臣に救国の道は教育立国にあるのではありませんかと卑見を披露した処、大臣は即座に「わかっとる!しかし、今は国民に充分食べさせることが先決だ。それから教育に重点をおく云々」旨力説されたことは印象的で忘れられぬ思い出の一つである。その後、わが国を経済大国に築きあげる基礎を作られたことは衆知の通りであるが、おおむね衣食足っている昨今、教育問題が全国で盛んに論議されていることは、咳に遅きに失した感があるが、依然智徳体兼備の人間の育成が強く要望されているようである。

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末筆になって愛済まないが、何としても悔やまれることは、在職中に何回か着手した同窓会の結成を見ずして退職したことであった。現在二千余名の卒業生をする同窓会が見事に結成され、相互の緊密な連携と団結を深めつつ母校の発展のために物心両面にあたって活躍しておられることは、誠に御同慶の至りに存ずる次第である。会員諸子には、今後共健康に充分留意されますよう部器栄部多幸を祈念するのみである。

私の退職後は、歴代の名校長のもと名市議会議員諸氏をはじめ町内幹部諸公の御尽力を辱うして、宿額の講堂兼体育館及びプールの完成を見る等鷺中の着々と躍進する姿は実に目覚しいものがあり慶況にえない処である。私は、中学校退盟後、間もなくそわれて、あの鉄筋四階建ての巨大な校害を持つ三原工業高校に勤務したが、そのせいか龍中の校舎が鉄筋三階建てに改築され堂々とそびえる姿を数回夢みたことがある。聞くところによれば、すでに老化した現在の校害も、改築の気運が醸成されつつあるとのこと誠に破快に堪えないことで、私の夢が正夢となりその早期実現を心から祈願するものである。

今や新進英速な山本校長先生に、卓越した指技術を存分に活用しておられる有能な諸先生が配され、充実した施設設備と、PTA、同窓会其の他関係諸機関の絶大な後援のもと学校運営が見事に遂行されつつあることは、実に頼もしい限りで、今後ますます鷲浦中学校の発展興隆を期待してやまぬ次第である。

ー 省略 ー

(鷺浦中学校創立五十周年記念誌)