双鷺洲 (Sōroshū) — Section 5-1¶
Verbatim JA transcription of an archival/historical compendium (Edo-period cadastral & census records, temple/shrine & school history). Classical Japanese with transcription artifacts; NOT yet translated; quotes deeper primaries (三原市史, 須波村 survey docs). Native/historian review required.
p.88
御用木及竹の保護
当時®種に用木とするものあり即機・松・杉・栗・薬・栃・提・梅・塊・柏・楠・・怪の十三種にて特別の保護を加え護林に在るものと難も濫に伐
採を許さず殊に四尺以上の良材は公簿に記載し其取締を厳格にせり文化六年には之が植付を奨励したる事あり
又当時竹の保護を窓にせずして御立数なる名称にて之を取締ること亭も御用材に異ならず竹の用途は多様なるも就中土地の保全に大関係
あるのみならず軍器の愛具たる旗竿、差物等、矢等に作るなれば之が伐採を取締れり助ち
一、竹
一尺ーすより二三寸週まで
一、皮付なら竹四五寸廻り
竹
一東五尺手地
ー、付竹八九寸より五六廻りまで
竹五六寸より一二寸廻まで
一、大なる竹
五六寸り
竹
一束一尺八寸手把
一、ほて笹一束に尺手地
一、根引竹八九すより七過まで
一、竹
枝一東五尺手把
の如く竹の成材保護及切出し等を一定せり而して矢然は郡内にては久比、大浜、豊島より産出せり
p.89
10.新生農村指定村
昭和24年(1949)、時の村長宮下清のもとで、鷺浦村は「新生農村」の指定を受け、戦後の復興をかけた地域づくりへの取り組みがされた。
〇鷺浦村新生農村建設十か年計画
はしがき
世界でも有数な集約農法と等細経営規模の日本農業は、講和条約締結後に於ける本格的自由貿易の前に、脆くも崩壊の危機にされんとして
居るのであります。然も山肌を主とする農家一戸当りの排地平均七反六数と云う貧弱さに、加えて変と甘話の生産を主体とする本村の20きは、一層この感を深くするものであります。
然るところ、今回県当局の施策として、名農業地帯に、農業生産力の増大、農家経営の改善、文化の向上等を総合的に発展させた模範農村を建設することを目的とする、新生農村建設要項が決定せられ、本村が島嶼地帯唯一の指定を受けて以来、県当局の積極的指導と挙村一致の体制の下に、本計画を立するに至ったのであります。即ち去る十月二十一日、県建設委員長である河井経済部長以下各委員の臨席の下に、本村建設委員会の発会式を挙げて以来、着々事業計画を進めて来たのでありますが、本計画の実施に当り、之が前提条件となるべき事業費については、県当局の補助と関係各課の施策に伴ふもの、他は、本村に於ける各種事業の収益と、施策に対する受益者の負担とに依り、を逐年増加せしめる方法に依りて、本計画の完遂を期せんとするものであります。
(中3)
結 携
風向明、東洋の「ベニス」と称せられる瀬戸内海が将来世界の観光地帯として発展してゆくであらうことは、当然考えられることであり、亦、再連日本が観光に依ってその一翼とすると云ふことも必然のことであろう。然しながら、観光の対象となるべき地域の農村が現状のま、でよいのか、否、現に急数な速度を以って押寄せつ、ある恐慌によって弊と困憊の深料にうごめく状態に置かれた場合、はたして世界的観光地だと呼称されてよいかと云う問題であります。即ち我々が新生農村運動を強力に展開せんとするのも、一つには以上の観点からでもあります。
p.90
十年後にだける吾が浦村は、先ず林計画の完遂によって全山緑化の衣を着け、適地適作による作付の換は、農道の完備と相俟って、所器高度に機械化された農業に説を変へて居り、作物・番水産物を中心とした正統農村工業の発展は、極度に•細化された本村農家をして、独り経済的に更生させるのみではなく、電化工事の完了は、機械化された農業の高度化に拍車を加へ、各種作業は顔る能率的となり、協同作業の拡充による労力の無駄は大幅に短縮せられ、生活文化の向上は期せずして実現せられ、文化部を中心として推進せられる公民館運動の飛躍は、村民各自の道義と教養を品揚せしめ、全国に範たる道義的農村の完成を見るであろう。皆は斯くして観光瀬戸内海に、農業をもって世界水準に達した佐木島あ
り、との日の一日も速かならんことを念願しつ、、茲に鷺浦村新生村建設十ヶ年計画を立した所以であります。
鷺浦村新生農村建設委員会は、農業経営全般に関する事業と、農村文化の向上をはかる事業を行うために耕種、排地、機械電化、畜産、造林、農村工業、水産、文化の八部をもって構成され、部単位で十か年計画を立てている。
11火山
現在、佐木の火山とよばれている山は、火急の時などの非常や連絡をするための合図に、新を焚いたり、筒に火薬を込めて煙(のろし)をあげ合図・連絡をした所で落によってつくられていた。
文化5年十月(1808)、佐木火山は、「当村送舟作事銀、御上ヨリ七十目下カワサレ五般作替。火山屋根吹替御上より銀三拾目被造申候」と
あり、屋根の吹替えをしていることから、文化5年、既に番所があり、火山として使われていた。
文政2年(1819)、「国郡志御用二付下しらへ書出帳」より
火山 但小キ番国屋アリ
同島原の岡与申所二部座候、公団役人様部通船之刻、立テ中候火山二御座候、尤細島の火を講、高根島へ通甲候(三原市史)
この文書から、公機の役人の通船に際して、細島の火を受け高根島へ連絡をしていたことが分かる。
火山の事、「覚」として、次の14カ所が火山となっており、ここでも、佐木の火山は細場の「のろし」を受け、高根へ合図をしていた。
1余崎2大浜3 細線・同4佐木同5高根・同場6久津・脱地7植松・忠海8阿場嶋・高崎・竹原9毛・木谷・吉名
10小芝・三津・風早 11銭嶋・小松原・内海 12松嶋・浦 13柏嶋・戸田・仁方 14三之瀬・広・蒲苅(数字は、連絡の順)
p.91
旧くは、太平山は、瀬戸内水軍の見張り場所であり、二人の武士が「蜂火守」として、常置していたが、番所が廃止となり、ひとりは向田へ、ひとりは須ノ上に下りたと云われている。向田に下りたのは田中家の祖であり、須ノ上に下りたのは奥本家の祖であると云われている。
12社倉=郷倉(こうぐら)(向田、八端神社)
向田八幅神社には、「ゴウグラ」と呼ばれているがあり、現在、檀尻などが納められている。
この意は、元々、江戸時代に造られた緊急時のための穀物蔵であった。
元禄15年(1702)
向田八醤神社に「部蔵」があった。
家保5年(1720)
「家人牛御改帳」に八幡神社に「御年蔵」が記されている。
和哉とは、農民が財産に応じて米穀を出し合い凶作に備える穀物庫で、肌脳の時、支給するために収納・保管した意康。
明和1年(1770)
広島藩は、肌の時の相互救済制度として「社法」を定めた。
これは、肌に備えて、社に設けられた穀物倉庫で、社倉であるが、向田では、「ゴウグラ=郷倉」と呼ばれ役人が置かれていた。
安永∞年(1779)
天明6年(1785)
額内ではどの町村にもこの設備のないものはないまでになった。
向田野浦村が社法に基づいて建てた「郷倉」への関わりがめられている。
天明6年(1785)石数弐拾八石七斗七丼。丁銭式と八百七七文。が納められていた。
向田では、明和1年に広島藩が社法を定める以前にこれと似た制度があり、「御蔵」があった。
この制度を受けて改築された建物の屋根は、茅益であったようである。
建物は、何時の頃か更に改築され、瓦葺となつた。多分、火事に備えてのことであると思われる。
p.92
江戸時代、肌が多くこの郷(社)によって多くの難渋者が救われたことと思われるが、その記録は十分判明していない。
天明6年(1785)
(新屋西原圧蔵の時代)
ー誉 右社倉法之機志厚蔵相建候節銘々持合之茶網竹木等持寄無代二市指出井無二市人夫二出候段
天明6年(1785)
向田野浦村庄屋 庄敲 (新屋西原庄崴)
銀或雨
右社法之ヒ仰出候趣摩相守役前出精村内之者共江深切二解聞セ登記以来統之年数二而及成就候取
計候段基以奇特之至二付為都美ヒ下之
天保12年(1841)
向田寺上に建立された供養塔に「社倉役」の名が記されている。
当時の社意役人は、角右門(上西原家の祖先)と記されている。
文久2年(1862)
割庄屋 名荷村庄屋 沢村当分庄屋 庄殿
ー誉
右老去”中年作方不塾二付難渋共江施行飯汁遣し志倉寄特之至二付
明治2年の凶作に対して、明治4年、広島藩庁より出された西原圧蔵の救助に対して銀三五処が迷わされた。という文書がある。
また、明治4年、広島藩庁より、明治2年の凶作時の山下助左正門の蔵米を賞して銀七五多が造わされている
p.93
向田野浦村
石数 武拾八石七斗七升
ー、丁銭弐貫八百七拾七文
社意法元立並到追加候者共江
壱石二付百文苑
右、社法之義、志厚発起之節、元麦
加入、其以来追加取替物等致シ、依之
社法及成就候段、基以奇特之至二
付、為御褒美被下之、
丁銭銭九六枚を百文とする「九六銭」
に対して、百枚を百文と計算したものをいう。
社倉法成就"救麦(殺)
社意に落えられる麦のうち、肌の際の救済に当てるものを救麦という。
教麦を救助に要する額まで貯した
場合、これを社法成就という
毁田郡
年寄格
劉庄屋頭取
西原庄威
去儿已年凶作二何
難渋者に救助の段
奇特之菱二付 銀三拾五匁差遣者也
辛米七月
廣明湖職
p.94
3行者堂・行者山
重井の細島は、昔、山伏島と云われ、細と重井の間の瀬戸は「山伏の瀬戸」と云われた。三原近辺には鉢が(木原)の山伏をはじめ沼田本郷地方や沼田東納所など山伏の修験道場が多く存在していた。
井家文書によれば、文政5年(1822)、「米山伏大乗院」(米山寺の山伏)の次官が上京の際、村中相談して官銀二五タを支給したとあり、米山寺
の山伏(納所山伏)が佐木にも祈補に来ていたことが分かる。
佐木には、行者山という山やその魔に建立されている不動神を祀る行者堂があり、何れも「行者」という名が付いている。この事から、行者山は、山伏の修行の場で、佐木だけではなく近郷を含めた山伏の修行場であつたものと思われる。
文化9年(1812)に行者堂を再建したと云う棟札があり、行者堂は、文化9年以前に建立されていたことが分かる。古くからの信仰の場であったと云える。
棟札には、「再建立役行者堂村内安人法繁栄祈處」と書かれ、村中の緊栄が願われ、安楽寺現住者意法印とあり、先達豚井機兵衛の名と、調
中日人と記されている。
現在、行者堂に器で、行者山を登ると大きな岩に囲まれた石鎚神社が祀られている。昭和54年(1979)、鳥居が岡本力三氏によって寄進され、神社の前は大きな平たい岩があり、修行の場を感じさせる。
この石神社は、昔から石鎚神社であったのか、どうかは分からないが、現在、四国の石鎚神社に器でる時は、行者堂に籠り、それから山頂近くの石鎚神社に話で、四国の石鎚神社(山)に話でている。山伏の姿を想わせるものがある。
p.95
米山大楽院次官上京二付、旦那中江壱様ヲ持、官銀之願い出御座候二付、村中相談之上二番官銀弐拾五役元より相談、午九月廿五日二夫伝蔵よ
り相渡串候、以上
文政五年九月廿五日
米山山伏大楽院殿
14 村上與市兵衛直盛 —地威院七佐木島一
村上奥市兵衛直盛は、小早川隆景公の家臣で、佐木島には、村上奥市兵衛直盛により、天正9年(1581)に建立された小浦八幅宮、天正19年(1591)に中興された安楽寺があり、安楽寺には、与市兵衛夫麦の恋がある。
小浦八棚宮
「当社は天正9年(1581)、小早川隆景公の家臣 村上奥市兵衛と申す者願主となり、八幡三座大神を勧請す」とある。
口湖によれば
当社は因村上家の代官 村上市兵衛盛と申す者願主となり、庄司代 向井喜左衛門尚、これの山林大4反618歩を進し、天正9年
6月13日宇佐八幅宮(旧官幣大社)の部分霊を佐木の小島に磨き参らすと串博ふ
安楽寺
天正19年(1591)、安楽寺は、現在地より北の「平の谷」にあった「敬連坊」という小庵を移したもので、天正19年(1591)、小早川家臣村上市兵衛直盛が中興し、自分の念持仏である大日如来を安置したと伝えられている。
安楽寺は、天保4年まで地蔵売の末寺であった。
檀家佐木島、細島。