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双鷺洲 (Sōroshū) — Section 9-1

Verbatim JA transcription of an archival/historical compendium (Edo-period cadastral & census records, temple/shrine & school history). Classical Japanese with transcription artifacts; NOT yet translated; quotes deeper primaries (三原市史, 須波村 survey docs). Native/historian review required.

釈尊圆寂二千二百五十一歲

諸悪趣に堕在せしむること勿れ

られた高い位。

○諸々の悪い境涯に堕ちない様にしてください。

道俗=

干時正安二年庚子九月日

道は、仏の道に入っている人。 俗は、仏の道に入ってない人。

大願主散位平朝臣茂盛(茂遠) 幹線道俗七十餘人

釈尊圓寂一二五一年に当たる 正安二年(一三〇〇年)

仏師念心

平茂盛(茂遠)を大願主として 幹縁道俗七〇余人の発願により 仏師念心が刻った。

(2) 仏師念心

念心は、西大寺流派律宗の石工だと言われ、東は箱根から西は大分県にまでその足跡が知られている。(三原市史)

心の作風は、いずれも堅実な技術で、丁寧に彫られ、石仏、石塔を自由にこなし、石仏には格調の高さが感じられ、落着いた表情や整った体部の 表情と衣文のひだの作りも入念で、西大寺流律宗関係の僧侶兼石大工であつたと思われる。

文保2年(1318)に造られた大山祇神社の宝篋印塔には、法橋念心とあって、法橋の位を授かった優れた石大工であったことを物語っている。 また、念心が彫造した米山寺にある小早川氏墓所の宝篋印塔、大山祇神社にある宝篋印塔は、いずれも国の重要文化財に指定されている。

心が彫造したもの

正安二年(一三〇〇) 佐木島

和霊石地蔵

(仏師念心)

県重要文化財

正和元年(一三一二) 今治市 附属寺

石塔残欠

文保二年(一三

大山祇神社

元応元年(一三一九) 年(

)

三原市沼田東 三原市納所

米山寺 宝篋印塔

宝箧印塔 万性寺 層塔残欠

(大工念心) (大工法橋念心) 国重要文化財 国重要文化財

6願主について

刻文にある願主は、今まで、地蔵の刻文や既存の記録から、散位平朝臣茂盛と読まれ、これが通説であったが、前述したように、刻文が「茂辷」と 読めることから、小早川一族の茂遠であるという説が出てきた。

消えかかっている刻文に見られるこは、以前であれば、もっとはっきりしていて、旁もはっきりしていたものと思われるが、なぜ今まで見過ごされ てきたのか、今まで多くの方が関心をもち、調べてこられたにも関わらず、誰ひとりとして気づかれなかったということは本当に不思議なことであ り、また、なぜ、「盛」と読んだのかも不思議なことである。なぜ茂盛という名が出てきたのかということである。

問題は、朝臣という官位は、皇族関係者に与えられたもので、正安2年(1300)の頃、小早川一族に散位とか朝臣とかの官位が与えられていたの かどうかということである。

今まで、平茂盛は、皇族関係者に与えられた官位・官職をもつ中央の人であると考えられてきた。

  • 175-

『佐木島は浦郷の一部で、沼田荘に含まれ、小早川茂平の所領であった。正嘉2年(1258)、茂平の妻浄仏に譲られ、その後娘の松弥に、次いで松弥 の子茂平の外孫へと伝えられ、外孫間で相続に関する相論が起こり、これに対する幕府の裁定が正応2年(1289)に出されたが、佐木島が誰に譲ら れたかは不明であつた。

正嘉2年(1258) 小早川茂平が妻浄仏に譲った所領に佐木島須並浦がみえる。

444 地蔵像造立の背景

6願主の願い

建治2年(1276) 備後国諸荘園領家地頭注文(「教王護国寺文書」)によると、北条時宗の弟宗政(相模左近太夫将監)は因島中庄の地頭とし て記載されている。(三原市史)

正応2年(1289) 正嘉2年、小早川茂平が妻浄仏に譲った所領、佐木島須並浦の相続をめぐって相論が起こり、下地中分が行われて佐木島が二 分されたと思われる。(三原市史)とされているが、これに対して、佐木島全体が、小坂の領主の所領となり、茂遠(小早川茂 遠)が佐木島を相続し、地頭職を務めていたものと推測されるとしている。

◎この時代、度重なる天災(地震・大風・洪水・旱魃・火災・疫病等)により、諸国に飢饉・餓死者が多く出、人々の生活は困窮した。そのため、人身売買、 賭博など横行し、生活の困窮により、世の中は乱れた。

生活を正し、人々の安泰を願って、大仏の建立や、真言律宗の極楽寺の創建や宋より高僧を招くなど、また、悲田院・療病院なども設けられた。 二度にわたる元の襲来に驚き不安を感じるなか、多くの費用を使った幕府は、財政苦に陥り、戦った武士に対して納得のいく褒賞が与えられなか ったことから武士の不平、不満(不服)が充満した。

北条一族であるとするならば、官位があり金のあるものにとっての一番の願いは、健康で長生きをし、今の体制が続き一族が益々繁栄することで あろう。しかし、北条一族では意に反して北条時頼の早死(33歳)、北条時宗の早死(33歳)に見られるように、一族(身内)の大黒柱である者の早死 が見られ、延命を願うと共に一族の繁栄を願ったことは云うまでもない。

◎この時代、度重なる天災・人災による人々の生活の困窮、元の襲来による不安と武士の不平不満、それと合わせて、末法思想の流布による人々の 不安な世の中は、全て末法の到来に起因するものであると思われるようになり、その不安は一層高まった。そして、死後の世界にまでも怯えや不安 を持つようになり、個人の価値観に基づく善悪の判断や自分の行動が信じられなくなり、死後、極楽に行けないのではないかという不安から、死後 の世界を恐れる風習までができ、厭世観を持つようになった。

そのため、人々は阿弥陀如来の座する極楽世界に往生することにあこがれ、お地蔵さまに来世への願いを託すようになった。

◎世の中の乱れと不安な生活の中で、今まで、死者のために祈られてきた信仰であったものが、生きている自分が自分自身のために死後、浄土への 往生を願う信仰へと変わっていった。(人のための祈りから、自分のために祈る信仰へと変わった。)

願主は、末法思想の流布による厭世観を払拭し、人々の安泰した生活を願い、安心して幸せな生活ができるように、また、阿弥陀如来の極楽世界 に往生できるように願って和霊石地蔵を造立し、地蔵菩薩のご加護を祈願したものと思われる。

律宗の信者であった願主は、地蔵菩薩に対して強い願いをもち、「殺生禁断を誓い、殺生を戒める十善の教えのもとに、自己の生活を正し、すべて の生きものの命を大切して、精進することを誓い、現実界のみならず、冥界においても永遠なる救済」を願ったものと思われる。

  • 177 -

を和霊地蔵として祀ったものと考えられる。

和霊石地蔵

版木が何時頃作られたのかは分らないが,版木には「藝州向田和霊地蔵」となっ

ており、この頃の呼び名であったと思われる。

磨崖和霊石地蔵

明治になって、和霊地蔵は、元々あった「割石地蔵」の呼び名に合わせて、正式名称として、「和霊石地蔵」という漢字にしたものと思われる。 しかし、一般的には、難しい「和霊石」という漢字は使われなく、やさしい「割石」の漢字が多く使われてきた。

大正8年に造立された割石半島の地蔵の銘も和霊石地蔵となっている。

17 地蔵菩薩について

8 和霊石地蔵祭

昭和50年(1975) 広島県重要文化財に指定され、地蔵の正式名称が「磨崖和霊石地蔵」となった。

―地蔵菩薩は、無仏の時代、釈迦如来に代わって、人々を救済くださる仏さまである―

お釈迦さまがある日、お地蔵さまを呼ばれて「地蔵よ、私ももう涅槃(ねはん)の時が近い。そこでお前に頼みがある。私が死んだ後、弥勒菩薩(み ろくぼさつ)が下生するまでの無仏の時代、(56億7千万年)、私に代わって、罪苦に悩む人々を救済してくれぬか。人間世界は勿論のこと、死後の世 界においても仏教の慈悲と光明がくまなく差し延べられるよう民衆の中の仏さまとなってもらいたい。」と頼まれたとされている。

約束されたお地蔵さまは、菩薩の位を気にもとめず、頭を丸め、杖をついて人々の悩みや苦しみを一手に引き受け、庶民とともに苦しみ、庶民と ともに生きる親しみやすいお地蔵さまとなられ、村外れや町かどのお堂など人々が足を休める場所や先祖の霊が眠る墓地の中などあらゆる場所 に立って、人々の幸せを願って見守っておられる。とされている。

和霊石地蔵は、地蔵菩薩像の壁面にお釈迦さまの仏滅年紀が刻され、現世・来世ともにお守りくださる仏さまとして、陸と海との界に阿弥陀如 来の座する西方を向いて造立され、祀られている。

地蔵祭は、以前は、昼地蔵祭と夜地蔵祭とが執り行なわれていたが、戦後、昼地蔵は無くなった。現在は、旧暦6月23日に行われていた夜地蔵祭 が、潮の干満を見計らい、7月下旬の土曜日を使って行われている。

いつの頃か、岡田良一氏を講元として、安楽寺住職により祭が執り行なわれていたようである。昭和8年、岡田良一氏の外、講中によって、地蔵像 へ石造香炉が寄進されている。当時は、夜店などが開かれ大変賑やかであったと言われている。

ある人は、昭和10年代の子どもの頃を思い出し「地蔵さんの供養は、例年常夏の夕刻(干潮時)に行われた。子どもにとっては、最高の楽しみでタ 方になると浴衣に身をやつし親に貰った小遣い銭を袋に入れ勇んで急行した。当日は他村からも多数の出店が出張して軒を並べガス灯が夜空を こがし、縁日の気分を盛り上げた。小遣いはせいぜい十五銭程度で買い物に目を光らせながら露店の前を右往左往して好みのものを求めた。帰路 は、予め持参した提灯を用いたが点々と連なる灯火は恰も狐の嫁入りを思わすものがあり、ロマンを感じた。」と話しておられる。

  • 179-

昭和50年(1975)頃 昭和50年(1975) 昭和52年(1977)

平成16年(2004) 平成7年(2005) 平成21年(2009) 平成26年(2014) 平成27年(2015)

2 安楽寺 山門

田中信一氏によって、和霊石地蔵の刻文を記した石碑が建てられた。

広島県重要文化財に指定され、地蔵名が「磨崖和霊石地蔵」となった。

青年団によって行われていた祭は、戦後、区へ移り、さらに一番組・一常会へとわたり、西田一和氏など一常会の人々に引き 継がれた。その後、土森広光氏を会長に一常会の人たちによって、文化保存会がつくられた。

橋本敬一氏によって、和霊石地蔵の願主は、小早川茂遠であると公表された。

登木正和氏によって、和霊石地蔵の刻文を記した石碑が建てられた。

山本巧氏によって、地蔵句碑が建てられた。

福井万千氏により、「広島県三原市磨崖和霊石地蔵 小早川茂遠と念心―」が著された。 土森広光氏を会長に、「磨崖和霊石地蔵保存会」が設立された。

三原市重要文化財指定 昭和56年)

安鷺(所名鷺双)

明治44年(1911) 頃の安楽寺山門

安楽寺山門は、明治10年(1877)、安楽寺住職第九世忍鎧(にんとう)が、 前住職良応上人の意志を継ぎ、三原城内の浅野忠英(ただふさ)邸の「御成 御門」を寺の山門として貰い受け移築した。

この山門(御成御門)は、天正年間(1573~92)の作と伝えられている。

昭和56年 三原市重要文化財に指定された。

構造形式 四脚門

御成門とは

切妻造り

本瓦葺き

高い位の人たちを迎えるために設けた

四脚門で、室町から江戸時代にかけて諸 大名が権勢を競って建てた門である。 したがって、安楽寺の山門は、当時の文 化の高さを知ることができる貴重な文 化遺産である。

御成御門

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