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双鷺洲 (Sōroshū) — Section 8-3

Verbatim JA transcription of an archival/historical compendium (Edo-period cadastral & census records, temple/shrine & school history). Classical Japanese with transcription artifacts; NOT yet translated; quotes deeper primaries (三原市史, 須波村 survey docs). Native/historian review required.

天保(1830~1844)年 鳥居が寄進された。 天保7年(1836)

荒神社に燈籠2基寄進された。

天保12年(1841)

荒神社の棟札あり。

棟札 「奉寄進小佐木荒神〇宮神主」

元屋 貞七

天保14年(1841)

狛犬1対が寄進された。

文久3年(1863)

荒神社の棟札あり。

文久3年(1863) 手洗石鉢寄進。

棟札 「奉葺替拝殿壱宇成就 願主惣氏子中」

小佐木嶋役場 元屋甚四郎

元屋 甚四郎 新屋 藤三郎

明治13年(1880) 三島社が造営された。

棟札 「大山積大神正幣拝殿造営正札」

明治13年(1880) 正幣拝殿が造栄された。

棟札 「天照皇大御神正幣拝殿造営正札」

御神体は、「須佐之男命ではなく、天照皇大御神」と記されている。 吉村藤三郎が額を奉納した。

明治13年(1880) 奉納額の内容

近頃体調が悪く造船業に携わることが、難しくなり困っていたが、明神様のお告げによって

左に記載した薬を服用いたしました所、霧雲の晴れるがごとく、いつの間にか体調がよくなりました。 神様のお恵みを世間の皆様にお知らせする為、この有り難い気持ちをしたためます。

芭蕉根 太 御種人参 小 耳草 小

明治13年10月

神様のお告げは一族の者にありました。

明治14年(1881) 幸丸の板図面が奉納された。 大森豊平

明治14年(1881) 灯籠2基が寄進された。 吉村保三郎

吉村藤三

明治25年(1892) 本殿を再建した。(口碑)

棟梁 明治の名工、安部信吉(須波の人)。

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世話係 吉村 千松、吉村次太郎

昭和15年(1940) 皇紀二千六百年を記念して葺替がされた。このとき、荒神社は「穀津神社」と記されている。

西原左武郎

棟札「奉葺替穀津神社」

社掌

棟梁 総代

川中富太郎

吉村千松

世話係

吉村才太郎、吉村藤蔵、大森良造

佐木の神社は、当初「三宝荒神社」として建立されたが、昭和15年の棟札には、「穀津神社」と改められ、神社名が変更されている。 昭和25年の棟札には元に戻され「荒神社」と記されている。しかし、小佐木では、最近まで、神社は「穀津神社」として祀られてきた。 現在、神社名は元の「荒神社」に戻されている。

宮司

棟札 「奉葺替修理小佐木荒神社正殿拝殿」

西原左武郎

氏子総代吉村藤蔵

昭和25年(1950) 拝殿の葺替修理がされた。

昭和35年(1960) 荒神社の修理がされた。

世話人 吉村藤蔵、大森良造、吉村謙五、吉村亮二、大森 豊、吉村實

世話人 大森良造、大森 豊、吉村謙五、吉村亮二、吉村實

昭和46年(1971) 穀津神社の葺替修理がされた。

宮司

西原種樹

総代

吉村忠義

区長

大森正人

昭和58年(1983)

穀津神社の葺替修理がされた。

宮司

西原種樹

総代

吉村實

区長

吉村和雄

平成9年(1997)

穀津神社の基礎廻廊・大山祇神社他二社の修理がされた。

宮司

西川佳範

総代

吉村和雄

区長

岡本正穂

平成23年(2011) 荒神社の拝殿が改修された。

宮司

棟札「奉荒神社拝殿改修竣工奉告祭一宇」

山田

願主責任役員 吉村和雄、岡本正穂

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また、三原市史などにある小早川茂平が妻浄仏に譲った領才須立洋木糸ると.

されたと思われる。とする説では、佐木島全体が、小坂の領主の所領となり、福寿丸、即ち、茂遠(小早川茂遠)が佐木島も相続し、地頭職を務めて いたとするもので、通説とは異なり、佐木島に対する支配関係は全く違ってきた。

・佐木島全体が小坂の領主、小早川茂遠の所領であるとすることから、和霊石地蔵を造立した願主も、「茂」と判読された刻文は、「茂遠」である と読まれ、願主は、「平朝臣茂盛」ではなく、小坂の領主である小早川茂遠で、「平朝臣茂遠」であると訂正している。

しかし、茂遠は、地頭職を務めていたと推測されるものの確かな証はなく、茂遠の名も、和霊石地蔵の刻文と「小早川家系図」、「沼田小早川家系 図」に記されているのみで、生年・没年をはじめ居住地の場所や法名、菩提寺、墓などについても一切明らかになっていない。

現在、広島県・三原市共に、広島県重要文化財である磨崖和霊石地蔵の刻文の「茂遠」への訂正はされていない。

7 磨崖和霊石地蔵

広島県重要文化財指定 昭和50年)

向田港の入り江は、かっては狭い海峡で、その中には舟泊まりの場所があった。 この海峡の入口付近に磨崖和霊石地蔵が鎮座している。

水際に造立されている地蔵は、干潮時には全身が現れているものの、満潮時にな ると地蔵の肩の辺りまで水没してしまう。大潮の時には、さらに完全に水没してし まうと云う珍しい地蔵像である。

和霊石地蔵は、鎌倉時代の後期、正安2年(1300) 平茂盛(茂遠)なる人物が願主と なり、仏師念心によって、高さ25m、幅4m、厚さ3mmの巨岩(花崗岩)に、座高 8 cmの結跏趺座像を肉厚に刻みだしている。

地蔵像は、中央の七弁の蓮華座の上に舟形の輪郭を彫り沈め、その中に半肉彫り されている。

頭部の後ろに円光背を浮き彫りにし、右手に錫杖を持ち、左手に宝珠をのせてい る。

地蔵の左右には蓮華の花をさした三茎華瓶紋が浮き彫りにされている。

地蔵の左右には願文などが刻まれ、全国でも類を見ない素晴しい地蔵で県内で は一番古い石仏である。

昭和50年、広島県重要文化財に指定された。

しかし、長い年月の間に風雨・波浪に曝され、三茎華瓶紋は残るものの、地蔵の顔

面の鼻・顎や願文など刻文が摩滅・剥落してきている。

広島県重要文化財

磨崖和霊石地蔵

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