双鷺洲 (Sōroshū) — Section 11-1¶
Verbatim JA transcription of an archival/historical compendium (Edo-period cadastral & census records, temple/shrine & school history). Classical Japanese with transcription artifacts; NOT yet translated; quotes deeper primaries (三原市史, 須波村 survey docs). Native/historian review required.
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36.
鷺浦村の補修教育
明治42年3月、鷺浦村立実業補習学校が佐木尋常高等小学校に併設された。
明治43年6月、須ノ上農業補習学校が須ノ上尋常小学校に併設された。
明治43年6月、向田実業補習学校が向田尋常小学校に併設された。
大正11年4月、学則が変更された。
大正12年4月、鷺浦村立実業補習学校は鷺浦村立農業補習学校と改称された。
大正15年7月、向田青年訓練所が開設した。
昭和6年1月、学則が変更され、青年訓練所に充当された。
昭和10年
龍浦村立青年学校となった。
昭和27年
鷺浦村生産教育がはじまった。
1向田の補習教育
世は進み行く、政治に教育に産業に将た思想に、刻一刻に進歩変転し其の機構は感々複雑の度を加える。吾々が小学校を終へたのみで漫然と職業につき、修養も研究もしないで可憎青年期を過ごしたならば、この激しい現代の生活戦線から敗残者の豪目を見るであらふことは火を見るよりも炳なことである。
ここに於いて本村は、明治43年 10月から実業補習学校を小学校件置して、郷土に止って農業に従事する青年男女のために農業家事日常生活に必須なる知識技能を一層深く授け郷土国家の進展に無す公民を養成することとなった。
それからは、従来徒らに一夜を語り遊んだものも、労作の鍬を収めて帰ったものも夜学の鐘が鳴り響くと包みのカバンを抱えて学校に通う様に
なり向田青年教育の曙光がここに閃いた。
本校現在の組織は尋常科を終へたものは前期に、高等科又は前期を終へたものは後期に、後期を了へたものは更に研究科に入学し、前期後期は共に二ヶ年宛、研究科は四ヶ年間研鑽することとなった。大正15年7月からは法令の定むる所により向田青年訓練所が設立されて、満十六才以上
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の青年は一層軍事的鍛練が行われることとなった。昭和7年4月からは向田青年訓練所は向田農業補習学校に充当せられて一層両者共に充実した感があった。
風雨の日に暑の日に、厳寒の夕に訓練服凛々しく教練を受くる若者の姿を見る毎に吾々は其の興国の意気と一種の心強さを覚ゆるではないか。我々は何時までも補習学校や青訓に一人の不就学者、不入所者の無いことを向田青年の誇りとして持ち続けなければならぬ。(郷土史)
2図書館
多数公衆の知識を啓培する機関として最も重要なるものは図書館である。この知識の倉庫である図書館を利用すると否とが一村文化の進否に大いなる関係を有すること、特に青年の向上心刺波に興って力あることは今更云うまでもない。特に本村の如き、向田の如き交通不便のため文化の恵沢の薄い地にあっては図書館設置及其の利用は最も大切なことである。本村に於いては大正 年鷺浦村図書館を設くるの計画を立て最初は三区巡回の文庫として数年之を実行して来たが後其の制を止めて役場内に図書館を設置し、毎年維持費として若干宛を支出することになっている。蔵書数は三百冊位あるが未だ利用状況にみるべきものがないのは遺憾である。これは設備に於いて不充分の点を認める感がある。青年会館(向田)の図書室は今少し利用成績がよい。けだし青年団員に限っている慣もある。
(郷土史)
3鷺浦村生産教育
昭和27年、「鷺浦村生産教育」計画は、新生農村建設計画のもとに、龍浦村の地域課題を教育の本質講に立って吟味し、今日の地域教育計画の中に、その解決策を試みようとしてたてられたもので、学校と村が一体となって取り組まれた。
同年、鷺浦村青年学級も開設された。
A 基本方針
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精浦村の総合開発計画の一環として考え、近代産業社会に合致した生産教育を、全教育面において取り上げる。
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学校教育の相互の関連をはかり、小、中、高校の一貫した教育体系を造ることはもちろん学校教育と社会教育との構造的関連をはかり統一した方針のもとに運営する。
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基礎的産業教育機関として、産業生活一般に対する知見と態度の養成をはかるとともに、適切なる産業技術の指導を行う。
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産業技術を中核として、実践教育を重視し、地域的課題に即して内容を変成する。
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近代的な施設、教材教具の充実を計る。
B 目標
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国土開発、郷土建設の理念、生産意欲の啓培をする。
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生産技術と経営能力の実際的指導をする。
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相互扶助の精神を養い、合理的共同組織、能率的経営の協同組合活動の振興をはかる。
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社会の生産機構、交易経済に対する理解を高める。
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計画性、合理性、協同、勤労等の実践力、研究態度を養う。
(昭和27年鷺浦村の概観)
④青年学級
昭和27年9月、鷺浦村青年学級が開設された。設立者は、村青年団であって、村並びに村教育委員会が後援団体となった。
教育目標
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勤労青少年として、社会人として、職業人としての教養を高め知性豊かな人格の完成を図る。
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真実を求め、真実を尊重し、真実に従って行動する精神を養う。
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自主的に考え判断し自主的に個性に応じた専門的技能を修得させるとともに、自主的に生活する習慣とその責任を重んずる態度を養う。
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社会と自分との関係について自覚を深め、明るい楽しい社会を建設するために、友愛協力奉仕の精神を養うとともに、国際社会を理解し、国際性を高める。
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社会生活における職業の意義を理解しその尊さを知り、勤労を愛好し勤労を重んずるとともに生産振に努力する態度を養成する。
講師は、高等学校教員を中心に現在11名を委嘱している。
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開校日は、毎週、火、木、土の三日で、一日4~8時間の講義および実習時間が組まれた。ただし、農繁期である6、7、11月と学校が休暇になる
8月とは休業ということになっていた。
開校当時の生徒数は1名(男子73・女子38名)年令は、16~25才で生徒の学歴も高小卒(27名)新中卒(50名)新高卒(27名)であった。
生徒の職業はほとんど農業で、このほかに公吏(3名)教員(2名)工員(4名)塩業(9名)などである。
開講場所としては主に高等学校、公民館(中央公民館)が利用されている。
しかし、青年学級教育も緒についたぱかりで、その成果については今のところ何もない。今後の発展が大いに期待されている。
(昭和27年鷺浦村の概観)
6社会教育の拠点となった中央公民館
大正13年(1924)に建てられた須ノ上公会堂は、戦後、鷺浦村公民館となり、社会教育活動の拠点となった。
中央公民館は、鷺浦村全体の社会教育活動の拠点に位置つけられ、戦後復興計画である「新生農村推進計画」の下に「人つくり」・「地域つくり」が進められた。
昭和231
昭和
昭和
2
年
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25
須ノ上の公会堂が驚浦村公民館となった。
広島県教育委員会より表彰された。
中央公民館が建設さられた。(須ノ上)
公民館の歌がつくられた。
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37青年团
1青年団の歩み
明治30年頃以前鷺浦村青年会は、三区各別にして何れも若連中と称していた。
明治30年頃以後向田区は修斎社と改称し、須ノ上区は盛年会と改称し、佐木区は青年会と改称して、それぞれ特色ある活動をしてきた。
明治41年2月各区連合して鷺浦村青年会を組織し、各区に支会を置いた。
明治43年8月支会を廃し事業区と改称し、佐木を第一、向田を第二、須ノ上を第三として三箇の事業区とした。
大正年代になって鷺浦村青年団と改称され、青年団は益々盛んになった。青年団の主要目的は修養団体としての活動であった。
大正13年5月女子青年運動は、鷺浦村処女会として発足した。のち女子青年団となり、男子青年団と同様なコースをたどった。
昭和年代になって 勤労報国運動などがおこり、いわゆる当時の国策の線に沿った活動がされた。
昭和15年(西暦1940年)鷺浦村青年団により、「皇紀弐千六百年記念事業」が行われた。
太平洋戦争終結後、一時崩壊状態であったが、再び青年団活動ははじまり、青年学級の開設や文化運動、体育運動などに手をつけるようなった。
終戦後からは、女子青年団は、男子とともに青年団活動をはじめるようになった。
昭和25年(1950)鷺浦村青年団が結成された。
昭和27年9月村青年団によって浦村青年学級が開設された。村並びに村教育委員会が後援団体となった。
昭和28年(1953)団員数約170名うち男子約130名・女子約40名であった。
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(青年宿・若連中(向田)
青年宿(向田青年団)
過去に於ける青年団を思い起す時必ず青年宿と云うもののあった頃を思い起し種々具の時代に於ける若い者の様子を想像する。
青年宿と云うのは何時からあったものか一寸記録にないが随分古い時代から始められたものらしい。向田青年会館が建設されるまで続いたとの事だ。現在屋号を宿と云うのがある。何時の間にか人が手に呼び出したものだ。其の宿は、家は其のままだが住居している人は近頃其の家に移った人だ。
青年宿は当区に三軒あった。戸主を中本亀三郎、中尾平五郎、西岡作次郎氏と呼んだ。向田の郷にあって何かの都合がよく家の構えも大きくて余
格の室を持って居て、青年達が一間二間占領しても決して家人が室に事欠かない。尚、第一の要件としては主人を始め一家中親切で若い者達を可愛がる、青年としても遠慮のない家、こんな条件を持った家が宿として選ばれて何時とはなしに青年宿と云ふ決定的なものになったのだ。
(郷土史)
若連中(向田)
昔は、現在の様に青年団等と云う様な組織はなく、十五才以上の若者は「若連中」と称して秋祭りやなどに櫓を廻したり、弱ったりしたものだ。
その若連中が現在の会館に集る如く、毎日夕食後は各々自分の懇意の宿へ仲のよい者同志が集って話したり笑ったり騒いだりして夜更しをする。
夜の明ける頃各自帰って其の日の仕事につくのだった。青年宿と云えば何か風紀の悪い事を連想する者もあるかも知れないが、又想像され易いものであるが決してそんなものではなかった。只毎年旧正月二十三日の夜と十一月十五日夜、オゴリとなづけた宴会を開くことになっていた。其の時娘連中は打連れて其の席に出て給仕の役目を務め、美しい声をはり上げて歌を唄って調子を合はせたものだそうだ。
其の他、旧二月二日と八月二日とが灸すえと云う日で、灸をすえた後幹部連中が酒宴を開く例になって居り、娘連中の奉仕もあったが、其の時以外は決して同席しなかったと云う。毎夜の様に何処からか聞こえて来る女のカン高い唄声は娘子連中が三、五人死集っては歌いら糸をひいていたのだそうだ。女は何をするにも必ず唄っていたと云う。平和な山村の情緒が想像されてなつかしい気持がするではないか。髪もウェーブをかけて見たい、手足にヒビの切れているのが恥ずかしい、祭だと云えば白粉もつけたい、其のくせ唄一つ歌へないと云うのが今の娘連中の通撃ではなかろうかと思われる今日に比べて、余程純な可愛らしさある様だ。娘子連中が宴会に出ていた風も二十五年位前から止んだ。青年宿と云うのも会館が出来てから自然止んでしまった。
青年会館が出来たのは大正三年頃であった。当時会館をもった青年団はあまり見受けられなかった。会館が青年宿の代わりに毎夜の集会の場所となり、講演を聞く講堂となり、宿泊所ともなり諸種の研究所ともなった。
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学校といらかを並べた近代的な建物はこれをもつ向田区民にも、これを使用する青年達にとっても無上の誇りであった。この誇りを傷つけない様に幹部をはじめ一同が努力反省批正の毎日を続けた良風美俗、これが現在の青年の進むべき道を明らかにしたもので誠に祖先の功労とでも云いたい。
以来星霜を重ねること二十有余年、明治、大正、昭和へと花々しい世の文化は展開せられて、この平和なる村落にも政治に経済に思想に種々の変化は当然と云ふべきものであった。
併し四年以前、第一回の修養団講習会をひらいて現在青年の進むべき道を明らかにした。
「徳狐ならず必ず隣あり」現代の世相を真に見つめ、この難関を突破すべく、雨して自己を磨き世を率いて理想郷建設をなすべく固き決心を持った数名の青年をして起たしめた事は全団員に波及した。期せずして修養団支部の設立となり天下各地の憂村愛国の士に伍して其の一歩を踏み出すに至った。
十年後の向田を見よとは男女団員の心の奥深く秘められた大いなる誇りである。
(郷土史)
③鷺浦青年会の事業 (明治44年度)
1 学事及兵事
イ、少年部補習教育奨励
三区共補習学校に入学せしめて教育しつつあり。
口育
各区に土後を設け、角力を奨励し、又学校の器械体操を開放し青年会員の体育を練磨す。
八、雑誌発行
年一回機関雑誌「双鷺」第一巻を発行す。
2巡回文庫
ー、図書参円を購入し、各区会員に巡覧せしむ。
ホ、入営兵士の慰問状毎年一回冬季に於て之を発す。
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へ、入退営兵士の送迎をなす。
事業区事業成績(佐木・向田・須ノ上)
第一事業区(佐木)事業成績(明治44年度)
1道路の修繕
道路式十間の修繕をなす。此の費用三拾五円六拾八銭(竣工四月日日)
2共同試作
田式反九十一歩を試作して純益金四拾八円七拾銭
- 校門寄贈
鷺尋常高等小学校新築に際し、石門鉄扉を寄贈す。比代価八拾円労力比以外
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鷺尋常高等小学校落成式余興全部を引受け、比報酬金五円を受く。之を学校建築費へ寄附す。
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養魚鯉二千尾を購入して池に放つ。 此代金式円。
6i. 肥料講習
12月25日、四日間肥料講習を為す。比費用三円五指銭。
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風紀改善を図る為め毎月一回会合をなす。
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共同貯金
一人一ヶ月金三銭宛貯金す。計金式拾八円四四銭。累計百九拾三円九壱銭。
9基本財産
金弐拾円を積む。累計弐百式拾式円参拾四銭。
第二事業区(向田)事業成績 (明治44年度)